、これによって重大な事件を解決した例は一つや二つでない。勿論科学的な研究や観察を基礎とした推理なぞを決して軽く見ている訳ではないが、場合によってはそんなものが全く役に立たなくなって、いくら研究して、推理して見ても、考えは唯同じ処をぐるぐる廻るばかりのみじめな状態に陥る事がある。
大抵の人間はそんな時にすっかり失望して終《しま》って、とても駄目だと諦めて終《しま》うようであるが、私は決してそれを諦めない。なおの事一心不乱になって考え続けて行く。そうすると全身の神経の作用が次第に求心的に凝《こ》り集まって、あるかないかわからない無色透明の結晶体みたようになってしまう。その時に第六感が煌々《こうこう》と、サーチライトを見るように輝き出して、事件の焦点を照し出したり、行くべき方向を示したりするから、それに依って猶予なく敏速な活動を開始する事が出来る。但し、そんな場合に何故そんな風に私が動き出して行くのかという理由は、説明しようとしても説明出来ないのだから、私は難事件になればなる程たった一人で仕事をする事になる訳である。しかもそんな場合に傍《はた》から見ていると、私の行動はまるで狂人《きちがい》のように感じられるそうであるが、その結果を見ると又、奇蹟としか思わない事が多いそうである。これは普通人ばかりでなく私と同じ仕事をしている連中でもそう感じるそうで、現にこの間私を免職した高星総監なぞも、
「君はまるで魔法使いのようだ。事件と何の関係もない事実を見付けては寄せ集めて、その中に事件の核心を発見する」
と云って舌を捲いた位である。しかし事実は不思議でも何でもない。普通人が常識の範囲内でだけしか仕事が出来ないのを私は「第六感」の範囲まで神経を高潮させて仕事をするからで、現在たった今私がカフェー・ユートピアを飛び出すと一直線に「新宿へ」と命じたのもその最適当した一例であろうと思う。
この時の私はただ「第六感」ばかりに支配されていた私であった。
初めカフェー・ユートピアでボーイが私に紫の包みを渡すべく差出した時に、私は殆んど睡りから覚めかけていた。そうして、いつの間にか不思議にがら空《あ》きになっているカフェーの片隅に、たった一人で静かに眼を閉じていると、疲れが休まった身体《からだ》の中にずんずん血がめぐって行く快よさと、頭の中の神経細胞がちゃんと秩序を回復していて気を付けの号令をかけられた軍隊のように整然としている気持ちよさとを、心ゆくまで感じていた。その時に誰か私の前に近づいて来るように思ったから、何気なく眼を開《あ》いて見ると、それは一人のボーイであった。
ところでそのボーイが差出した紫色の包みを受取って、中味を検《あらた》めようとした時に、その包んだ風呂敷が、紫色の絹ハンカチである事に気付くと同時に、私ははっとさせられた。そうして今日じゅうの出来事……否、二年前の東京駅ホテル殺人事件以来の出来事の裏面に潜む、想像を超越した奇怪な出来事が、一時に解決されかかったように思いつつ、眼の前に並んだ四枚の皿を見まわした。
それから私は立ち上って出て行きがけに、念のため私が自分で註文した食事が、黒|麺麭《パン》とスープとハムエッグスと、ウイスキーを入れた珈琲《コーヒー》の四皿に相違なかったかどうかをボーイに問い確かめてみると、ボーイはその通りですとハッキリ答えた。その時に私は一切の秘密を明かにする裏面の真相が電光のように私の頭に閃めき込むのを感じたのであった。
私の第六感の作用のすばらしさをハッキリと感じたのであった。
読者は記憶しておられるであろう。
去る大正七年十月十四日の朝、東京駅ホテル第十四号室で起った岩形圭吾氏こと、志村浩太郎氏の変死事件を探るために、私はその朝の午前十一時頃カフェー・ユートピアへ来た。そこで一冊の聖書を見付けて、その聖書によって志村氏と、その妻のぶ子がJ・I・Cに関係している事実を発見したことを……。
……ところでその時に私が坐っていた卓子《テーブル》は、確かに最前坐っていたのと同じ卓子《テーブル》の同じ椅子で、しかも、その卓子《テーブル》が又その前夜、志村夫婦が差し向いに坐っていたその卓子《テーブル》ではなかったか。……のみならずその卓子《テーブル》に腰をかけていた志村浩太郎氏が、その妻ののぶ子から紫のハンカチを受け取る直前に、その卓子《テーブル》の上に並べていた四皿の料理は、今夜疑問の女から紫のハンカチを受け取る前に並べていた四皿の料理と、そっくりそのままの……黒麺麭と、スープと、ハムエッグスとウイスキー入りの珈琲ではなかったか。
……今の世に奇蹟はない。
……偶然としては余りに偶然過ぎる。
しかもこの奇蹟的な偶然を、私の第六感の作用として判断すると、一切の疑問の闇を貫く一道の光明が、サーチライトのようにありありと現われて来るではないか。
あの時に発見した聖書は、今も警視庁の参考品室の片隅にある、暗号の部と書いた硝子《ガラス》戸棚の中に投《ほう》り込まれたままになっている。たしか二〇一番の札《ふだ》を貼られたまま塵埃《ほこり》に包まれている筈である。
私も、今朝《けさ》の中《うち》迄はすっかりあの事件を忘れてしまっていた。何もかも忘れて、余生を自然科学の研究に没頭して送るべく、これから追々と買入れねばならぬ器械と、薬と、書物の事ばかり考えていた。
ところが今日の午後になって、嬢次少年の訪問を受けると又も、新《あらた》にその時の記憶を喚び起したのみならず、その問題の曲馬団の興行を見物に来て、カルロ・ナイン嬢の美しい姿を見て、どこかの華族様の令嬢ではないかと思ったりした。又、自分の直ぐ背後《うしろ》に坐っている女優|髷《まげ》の女を見ると、もしや志村のぶ子ではあるまいか……なぞと途方もない事を考えたりした。そのおかげであべこべに女から不良老年と見られて逃げられてしまったが、その時に私は、変な日だなと思った。今日は自分の頭が余程どうかしていると思った。そのほかにも未《ま》だ二つ三つ変だな……と思った事があったが、先の用事に気を取られて、次から次に忘れて行った。おまけに時間の間違いで、大勢の女が舞踏の最中に、馬に蹴殺されそうになった心配の余りに、頭がすっかり混乱してしまって、茫然恍惚とした夢うつつの境をさまよいながら、どこをどう歩いているか解らないまんまにカフェー・ユートピアに来てしまったのである。曲馬団が真赤な偽物である直接の証拠を一つも発見し得ないまま……嬢次少年の復讐を手伝うべき準備偵察も何も出来ないまま……そうして団員のどれもこれもが、皆本物の曲馬師で、素晴らしい腕前を持っているらしいのに感心させられたまま……平生《いつも》の理智と判断力とをめちゃめちゃにたたき付けられて終《しま》いかけていたのである。
ところが私の「第六感」はそんな甘い事では承知しなかった。それ以上の……殆んど私の生命《いのち》にも拘る或る大きな秘密を掴もうと努力していたのであった。
あとから考えると私の「第六感」はあの時に色々な材料を提供して、私の判断力の活躍を催促していた。前に述べたカルロ・ナイン嬢が貴族的な……寧ろ皇族的な気品を備えていた事……女優髷の女を見るとすぐに志村のぶ子を聯想させられた事……なぞも勿論、私にとって大切な判断の材料でなければならなかったが、まだこの外にも私の「第六感」は幾多の重要な発見をして次から次に私の脳髄の判断活躍を催促していたのであった。
……カルロ・ナイン嬢が乗馬に深い経験を持っていないこと……。
……ハドルスキーがいつも嬢の直ぐ後方《うしろ》に馬を立てて、恰《あたか》も嬢を監視しているかのように見えた事……。
……そのハドルスキーとカルロ・ナイン嬢とが場内を廻りながら馬上から私をちらりと見た事……等、等、等。
その他色々と注意すべき点が沢山あったように思うが、その中でも亦、取りわけて重大な意味を含んだ暗示がたった一つあった。それは、すべての暗示材料を一貫して……曲馬団……女優髷……ジョージ・クレイ……志村夫婦……魚目《ぎょもく》と木精《メチール》の毒薬……ピストル……J・I・Cなどいうものの一切合財の裏面の消息を一言で説明している紫のハンカチであった。
……カルロ・ナイン嬢が持っていた紫のハンカチ……。
……女優髷の女が持っていた紫のハンカチ……。
……そうして二年前、志村のぶ子が持っていた紫のハンカチ……。
……同じ大きさの同じ色のもの……。
私はどうしてこれに気付かなかったのであろう……この三人の間にはちゃんとした脈絡のある事を紫のハンカチが遺憾なく証明しているではないか。仮りに志村のぶ子が死んでいるとしても、カルロ・ナイン嬢は私の前で紫のハンカチを振って行ったではないか。私の真背後《まうしろ》に居る女優髷の女に見せるために……。何かの合図をするために……。
こうした事実が確定して来るとカルロ・ナイン嬢が、私の顔を見て行ったように思われた理由も判明する。カルロ・ナイン嬢は、私を見て行ったのでなくて、私のすぐ背後《うしろ》に居る女優髷の女を見て行ったのだ。二人の女は紫のハンカチでもって何かの意味を通信し合って行ったのだ。
然らばその通信し合った意味とはどんな意味か……。
これも私の「第六感」がハッキリと暗示している。私が註文した四種の料理によって、説明し過ぎるほど明瞭に説明している。
……紫のハンカチを受取ったものは殺されなければならぬ。
……と……。
何という恐ろしい暗示であろう。
そうして又、何という明瞭な宣告であろう。
二年前に志村のぶ子から紫のハンカチを受け取った志村浩太郎氏は、その夜のうちに奇怪な変死を遂げたではないか。今から考えると、志村浩太郎氏の死状は、私の判断も、呉井嬢次の説明も超越した、恐ろしい死に方であったのだ。
そうして現在の私も、紫のハンカチを、J・I・Cと関係のあるらしい美しい女から渡されて、死の暗示を与えられているではないか。二年前の志村氏と同様の不可思議な「死の運命」の方向へ、ぐんぐんと惹き付けられて行きつつあるではないか。
……私がJ・I・Cに殺されなければならぬ理由は数え上げるだけ野暮《やぼ》であろう。私が二年前に、前総監の許可を得て、M男爵から内密に借り受けた名簿によって日本内地に散在するJ・I・C団員を虱潰《しらみつぶ》しに投獄し、又は国外に放逐した事実は、微塵《みじん》も外《ほか》へ洩れていないにしても、最少限J・I・Cの連中の記憶には骨の髄まで徹底している筈である。さもなくとも私が辞職の直前に、現警視総監と大声で云い争った、その半言隻句でも外に洩れたとすれば、それだけで十分である。況《いわん》や私の眼の球の黒いうちはJ・I・Cの影法師でも二重橋橋下に近づけない覚悟でいる事が、万に一つでもJ・I・Cに伝わったとしたらどうであろう。
否々《いやいや》。彼等はもうとっくの昔に私のこうした決心を感付いている筈である。そうして私を第一番に片付けてから、第二第三の仕事にかかる予定にしていなければならぬ筈である。そうして彼等はこの目的の下に、生命《いのち》知らずの無頼漢をすぐり集めて、曲馬団を組織して捲土重来《けんどちょうらい》したものに違いないのである。これは決して私の自惚《うぬぼ》れや何かで云うのではない。
然るに私は最前嬢次少年に会ってから後《のち》というものはこんな考えから全然遠ざかっていた。自分の一身に関する危険なぞは変にも考えずに、ただ漫然と様子を見る位の考えで見物に来ていた。そうして嬢次少年の仕事を手伝うこと以外に何等の緊張も、危険も感じないまま双眼鏡をひねくりまわしているに過ぎなかった。そうして思いもかけぬ大失敗をして徹底的にたたき付けられたまま曲馬場を出て来たのであった。
その時の私の頭の中は、自分自身がどこに居るのか、判断出来ないくらい混乱していた。常識とか理智とかいうものは跡型《あとかた》もなくノック・アウトされた空《から》っぽ同然のあたまを肩の上に乗せて、ふらふ
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