入った。それから入口に赤い煉瓦を敷いた家……ここだ……ここに這入ったのだ。して見ると私は曲馬場の前に出て、鍛冶《かじ》橋を渡って、電車通りから弥左衛門町に這入ってここへ来たものらしい。とにかくあの曲馬場の楽屋で嬢次少年が書いた文句、
「この中の黒い鞄は頂戴致しました。御心配かけました」
というのを読んでから今までの間の私の頭の中はオムレツにされかけた卵のように混乱していた。嬢次少年に欺かれ、弄《もてあそ》ばれたという憤怒の焔《ほのお》に熱し切っていた。そうしてその中に、今日の出来事の原因結果を整理しようと焦躁《あせ》っていた。
……何のために私をあれ程に欺いたのか。……何故に十四五分で済む演技を二十分以上もかかると嘘を吐《つ》いたか。何故に私を死ぬ程心配させたか……と考えては考え、考えつくしては又考え直した。けれどもそれはただ私の頭を混乱させるばかりで、何等の判断力も決定力も与えなかった。
……否……たった一つ……私がハドルスキーに抱きすくめられて藻掻《もが》いているうちに……まだ多少の推理力が頭の片隅に残っているうちにてっきりそれに違いないと思い込んだ事がある。そう気がつくと同時に一層猛烈に藻掻きまわって、嬢次少年を一刻も早く引っ捕えるべく、焦躁《あせ》りまわらずにはいられなくなった事がある。
それは他でもない。嬢次少年の「復讐」という事であった。嬢次少年はその両親の讐敵《かたき》を取るべく私を手先に使って、曲馬団に致命的の打撃を与えているのだ……という私の直覚? であった。
私はこうした事実を頭の片隅で推理すると同時に、ほんとうにキチガイになりかねないくらい恐怖戦慄したのであった。絶叫し狂乱したのであった。……如何にJ・I・Cが日本民族の敵とはいえ、如何に曲馬団が兇悪無残の無頼漢の集まりとはいえ、又、バード・ストーン団長が如何に両親の仇《かたき》とはいえ、これに致命的の打撃を与える手段として、何の罪も報いもない数十名の美人を狂馬の蹄鉄にかけて蹴殺させるというような極悪残忍な所業《しわざ》が、果して人間の……しかも一少年の頭から割り出され得ることであろうか。東洋文化の真只中、大東京の中心地として、馬場先の聖域と東京駅と、警視庁とを鼻の先に控えた晴れの場所で、ついこの間まで現役の探偵として多少共に人に知られた私をタマに遣《つか》って実行された事であろうか……というような疑問と驚愕とを一時に頭の中に閃めかせつつも、死に物狂いに虚空を掴んだのであった。
しかし、その騒動が事なく済んだ事がわかると、私はぐったりと喪神状態に陥りながらも、その一瞬間に私のそうした推理に幾多の矛盾がある事に気付いたのであった。……親のために泣くような純な心を持った少年が、こんな残忍冷血な計画を思い付く筈はない……「正義」というものに対してあれ程敏感な人間が、これ程の卑怯無道な手段を択《えら》む筈はない……というような色々な反証を思い浮めると同時に、ただ、何かなしに欺された、飜弄された……という極めて低級な憤怒に駆られたのであったが、その憤怒も亦《また》、少年が書き残した「御心配かけました」の一句でパンクさせられてしまうと、とどの結局《つまり》、私は何が何やらわからない五里霧中の空間に投げ出されてしまったのであった。そうして何が何やらわからないままここまで来てしまったのであった。
私はこれ程|非道《ひど》い手違いをして、これ程痛烈な心配をして、これ程無茶な眼に合わされて、これ程にベラボーな大きな恥をかかされた事は今まで嘗て一度もなかった。そうしてもし本当に私を、これ程の眼に合わせ得る者があるとすれば、今のところあの少年嬢次よりほかにない筈である。これだけはどっちから見ても疑いない事実である。
……宜《よ》し……俺は嬢次少年を見事に取って押えてくれよう。そうして事実、俺を愚弄したものであるかどうかを白状さしてくれよう。
やっとそれだけの決心をすると、やがて眼の前のスープの皿が眼に付いた。これは私が無我夢中の中《うち》に註文したものらしいが、果してその通りかどうかを考える前に……私は何もかもなく冷たくなったスープ皿を引き寄せて音を立てて貪《むさぼ》り吸うた。それと一緒に俄《にわ》かに空腹を感じて来たので、そこにあった黒|麺麭《パン》を左手に掴み、右手で肉叉《フォーク》を使ってハムエッグスを掬《すく》いながら、野獣のように噛じり、頬張り、且つ呑み込んだ。そうして最後に角砂糖をガリガリと噛み砕きながら、冷え切った珈琲《コーヒー》をガブガブと呑み干してしまった。するとそれは普通《ただ》の珈琲でなくてウイスキーを割ったものであることが、飲んだ後から解ったので、酒に弱い私は慌てて水瓶を持って来させて、コップで二三杯立て続けに飲んでアルコール分を弱めようとしたがもう遅かった。最前からの疲れと、アルコールの利き目とが一緒にあらわれたものであろう。爪楊枝《つまようじ》を使う間もなく崩れ落ちるように睡くなった。全身の筋肉が綿のようにほごれて、骨の継ぎ目継ぎ目がぐらりぐらりと弛んで……足の裏が腫れぼったく熱くなって……頭の中が空っぽになって……その身体《からだ》をぐったりと椅子に寄せかけて……眼を閉じて……全身の疲れが快よく溶けて……流れて……恍惚となって……………………………………………………………………………………。
……そのうちにどこかの階段を慌しく駈け上って来る靴の音を、夢うつつのように聞いていた。
「大変だ大変だ」
「何だ何だ」
「火事か……喧嘩か……」
「戦争だ戦争だ。今撃ち合っているんだ。早く来い早く……」
「馬鹿にするな」
「いや本当だ。早く早く……」
「どこだどこだ」
「帝国ホテルだ……」
「嘘を吐《つ》け……担《かつ》ぐんだろう」
そんな夢のような会話と、階段を降りて行くオドロオドロしい五六人の足音を、やはり遠い世界の出来事のように聞いていた。そうして、その会話の通りの戦争を夢とも空想とも附かぬ世界にうつらうつらと描いていた。
カーキ色の城砦のような帝国ホテルの上空に、同じ色の山のような層雲がユラユラと流れかかって来る……その中から一台の、矢張りカーキ色をした米国の飛行船が現われて帝国ホテルの上空をグルグルと旋回し初める……帝国ホテルの屋上には何千何百ともわからぬ全裸体の美人の群れがブロンドの髪を振り乱して立ち並んで、手に手に銀色のピストルを差し上げながらポンポンポンポンと飛行船を目がけて撃ち放す……飛行船はタラタラと爆弾を落すと、見事に帝国ホテルに命中して、一斉に黄金色の火と煙を噴き上げる……美人の手足や、首や胴体がバラバラになって、木の葉のように虚空に散乱する。……帝国ホテルが真赤な血の色に染まって行く……飛行船も大火焔を噴き出して独楽《こま》のようにキリキリと廻転し初める……それを日比谷の大通りから米国の軍楽隊が囃《はや》し立てる……数万の見物が豆を焙《い》るように拍手喝采する……それを警視の正装した私が馬に乗って見廻りながら、これは困った事になって来た。どうしたらいいだろう。米国公使館に電話をかけてやろうか。どうしようか。……それともこれは見世物じゃないか知らん。それとも何かの広告かしら……なぞと色々心配しているうちにとうとうほんとうに眠ってしまったらしい……。
……それはおよそ二時間足らずの睡眠であったらしい。けれども疲れた頭と身体《からだ》を休めて、新しい元気を回復するには十分であった。そのうちにふっと気が付いてみると眼の前に十二三の見習いらしいボーイが立っている。そうして肩を怒らしながら紫色のハンカチで包んだ四角いハガキ大のものを私の鼻の先に突き付けている。
私は無言のまま何気なくその包みを受取った。結び目を解いて中味を検《あらた》めて見ると、何でもない古新聞紙で、ただ紫のハンカチを包みらしく見せかけるために包んだもののように見えた。
私はそう気付くと同時にハッとした。そうして眼の前に空しく並んだ四つの皿をジイーと睨み付けた。
その時にボーイは横柄《おうへい》な態度で云った。
「さっき表を通った方《かた》が、貴方《あなた》に渡してくれと云ったんです。……ですけど、ちょうどお寝《やす》みでしたから待っていたんです」
その言葉が終るか終らないかに私は椅子を蹴って立ち上った。ボーイはその剣幕に驚いて一寸|後退《あとじさ》りをしたが、魘《おび》えた眼付きをして私を見上げた。
「それはいつ頃だ」
「一時間……二時間ぐらい前です」
「どんな人間だ……」
「……よく……わかりません。俥《くるま》の幌の中から差し出したんですから……けれども何でも若い女の方のようでした」
「何と云った」
「エ……?」
「そいつが何と云った」
「二階の窓のすぐ側の西側の隅っ子の卓子《テーブル》に灰色の外套を着て、腰をかけて居眠りをしている紳士の方に差上げてくれと……」
「それだけか」
「ハイ……」
私は窓の外を見た。私の姿は窓の外から見えないようになっている。
「俥の番号は記憶《おぼ》えているか」
「よくわかりませんでした」
「どっちへ行った」
「新橋の方へ……」
私は紫のハンカチを新聞紙と一緒に内ポケットへ突込んで、机の上に五十銭玉を五つ投げ出した。
「お釣銭《つり》はお前に遣る」
と云ううちに帽子を掴んで表に飛び出しかけたが又立ち止まってボーイを振り返った。
「俺が今喰った……その四皿の料理はスープとハムエッグスと黒|麺麭《パン》と珈琲《コーヒー》だったナ……ウイスキー入りの……」
「ハイ……貴方が御註文なすったんです」
ボーイは叱られるのを待っているような顔をした。
「よし。この家《うち》には電話があるか」
「御座います」
「数寄屋橋タキシーに電話をかけて早いのを一台大至急でここへ……」
「タキシーなら一軒隣りに二台あります」
私はその声を半分階段の途中で聞きながら表へ飛び出した。ボーイが指した方向の一軒隣りに駈け付けて、たった今帰って来たばかりの新フォードに飛び乗ると、ニキビだらけの運転手に五円札を二枚握らした。
「新宿駅まで……全速力だぞ……車内照明《ルーム》を点《つ》けないで……」
運転手は札《さつ》を握ったまま恨めしそうに振り返った。
「この頃はルーム点けないと八釜《やかま》しいんです。直ぐに赤自動自転車《アカバイ》が追っかけて来るんです」
「構わない……俺は警視庁と心安いんだ……」
話が又、少々|傍道《わきみち》へ這入るようであるが、しかしここでちょっと脱線を許してもらわないと、話の筋道が無意味になりそうだから止むを得ない。
あれ程、昏迷に昏迷を重ねて来た私が、何故にこのような猛然たる活躍を初めたか。もっと具体的に云えば、前記の通り取り付く島もないほどへたばり込んで、涙も出ないほど叩き付けられていた私が、たった今、カフェー・ユートピアで紫のハンカチを受け取って、自分が註文して喰ってしまった四皿の料理の名前をもう一度確かめると同時に、何に驚いてタクシーに飛び乗って、全速力の一直線で、狂人《きちがい》のように新宿めがけて飛び出したか……という理由を説明するには、是非とも私の体験と観察から生れた「第六感論」なるものを少々ばかり御披露させてもらわねばならぬ。そうして兎《と》にも角《かく》にも世間の所謂《いわゆる》「第六感」なるものが決して非科学的な、もしくは荒唐無稽なものでない。寧ろ恐ろしく科学的な、非常に深刻偉大な実在現象である事を、幾分なりとも認めてもらわなければ、かんじんのところで話の眼鼻がつかなくなると思うからである。
読者も御承知の事と思うが、すべて新聞記者とか、刑事とかいうものは多少に拘らず第六感というものが発達しているものである。私は近い中《うち》にこの第六感が活躍する実例を種類別にして、纏めて、「第六感」と題する書物にして出版するつもりだから、苟《いやし》くも探偵事件に興味を持つ人々は、是非とも一読せられたい……いや……これは広告になって申訳ないが、ここにはその内容の大要だけを述べさして
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