「さようさよう。あの次に小さいのは日本の対州馬でしょうよ。ハハハハ……しかし、よくこんなに各地の純粋種ばかり集めて乗り馴らしたものですなあ。余程金を費《つか》ったでしょう」
「人間と馬と対《つい》になっているんですからね」
「そうそう。全く感心ですな。この次の美人大曲馬にはどんなのが出て来るか……」
「あっ……美人大曲馬は一番先に済んでしまいましたよ。昨日《きのう》もそうでしたが……」
「ははあ。プログラムの都合ですかな。道理で時間がすこしおかしいと思いました。……それではこの次は『大馬と小犬』が始まる訳ですな」
「そうです。まだ時間がありますが」
「面白いですかな」
「ええ『大馬と小犬』も面白いですがその次の馬上の奇術っていうのが素敵なんです。何でも米国に帰化した伊太利《イタリー》の少年だという事ですが、曲馬と手品を一緒にやるんです。見物に頼んで自分の身体《からだ》を馬の上に縛らしておいて、自由自在に乗りこなす上に、七尺もあるハードルを飛び越したり、火の輪を潜り抜けたりする中《うち》に綺麗に縄を脱けてしまうんです。それから長い長い万国旗を馬の耳から引き出したり、帽子の中から火を燃やして、その中から鳩を掴み出したり、蝋《ろう》の弾丸《たま》を籠めたピストルでそれを撃ち落したり、いろんな事をするんです」
「ほほう……なかなか達者なものですナ」
「まだあるんです。一番おしまいにはビール樽《だる》の中に封じられて二頭の馬の背中に積まれたまま、ぐるぐるまわっているうちに、自分の姿とそっくりの人形を幾個《いくつ》も幾個もビール樽の中から地面《じびた》の上に投げ出すのです。それは確かに空《から》っぽのゴム人形だろうと思うんで、樽の中に仕掛けてある圧搾|瓦斯《ガス》か何かで膨らますに違いないと思われるんですが、その投げ出し方が巧妙な上に、馬から落ちるとすぐに駈け付けて抱き上げたり介抱したりする楽屋連中の態度が又、とても真に迫っているので、その人形の一つ一つが生きたジョージ・クレイに見えてしようがないんです。……今のが本物だ……いや今度こそ……なんて皆がワーワー云い出すんです」
「成る程。ハハハ。それは眼新しいですな」
「そのうちに二頭の馬が、向うの真中あたりに来て左右に引き別れると、樽がばらばらになって、中には誰も居ない。それで初めて一番おしまいのゴム人形そっくりに見えたのが、本物のジョージ・クレイだったという事が解るんだそうです」
「ははあ。……何ですかそれじゃ貴方は昨日《きのう》御覧になったのじゃないですか」
「ええ……見ませんとも……友達がみんな話していたんです。このジョージ・クレイと今のカルロ・ナイン嬢がこの曲馬団の花形だって……」
「アハハハ……成る程成る程」
「……それから……その次の馬のダンスも面白いそうです」
と青年は慌てて云い足した。
「何でも最前から曲馬をやった伊太利や亜米利加の美人や、外にまだ大勢居る座附《ざつき》の女が、全部薄い着物を着た半裸体の姿で、数十頭の裸馬と入れ交って、あの楽屋口から練り出して来て、愉快な音楽に合わせながらダンスを遣るんだそうです」
「ハハハ……。それは嘸《さぞ》かし面白いでしょう。毛唐はそんな事を好くものですからナ」
青年ははっとしたらしく前後左右を見まわした。しかし近くに西洋人らしい者が居ないのを見て安心したらしかった。
一方場内には二十名ばかりの音楽隊が輪を作ってコロンビア・マーチを奏していた。義勇兵式の空色のユニフォームに金銀のモールをあしらった綺羅《きら》びやかなバンドで、歯切れのいい鮮かなピッチが満場をしんとさせていた。
私はその音楽を聞き、又前の二人の話に耳を傾けつつ、時計を出して時間を計《はか》っていた。そうして演奏が済むと同時に立ち上って、見物席の背後《うしろ》に出ようとした。その時にふと気が付いたが、私のすぐ真背後《まうしろ》の席にいつ来たものか十八九のハイカラな女優髷《じょゆうまげ》の女が、青い色眼鏡をかけて、片っ方の眼に薄桃色のガーゼを当てて坐っている。
もっともそれだけの事ならば別に私の注意を惹きはしない。眼の悪い女は、よくこうしているものだが、私が驚いたのはこの女が、眼元はよくわからないが実に絶世の美人で、最前のカルロ・ナイン嬢に優《まさ》るとも劣らぬ容色を持っている事である。この女を見ると私の持論の「日本美人は西洋美人の敵でない」という主張が、根元からぐら付き出したような気がした。しかも不思議にもこの女は、最前カルロ・ナイン嬢が持っていた紫のハンカチと、同じような色の、同じ位の大きさのハンカチを軽く口の処に当てているのであるが、それが又、この女の着ている派手《はで》な紫色の錦紗縮緬《きんしゃちりめん》の被布《ひふ》や着物と一緒に、化粧を凝《こ》らしたこの女の容色を引っ立てて、妖艶を極めた風情を示している。あまりに俗悪な比喩ではあるが、最前のカルロ・ナイン嬢の容姿を雪の精に見立てるならば、この女は、その化粧の凝らし加減や、その妖艶を極めているところから見て、是非とも花の精と思わなければならぬであろう。それも普通の花の精ではない。たった一眼で人の魂を奪い、生命《いのち》までも取ろうとする毒草の精に譬《たと》えねばならぬ……それ程にこの女は深刻な、艶麗な美しさをもっている。二年前に私の鼻を明かした志村ノブ子を、私は不幸にしてたった一眼チラリと見ただけで、印象に深く残していないが、これも絶世の美人だったそうで、東洋銀行に金を受取りに行った時は、やはりこの女と同様に紫縮緬の被布を着て、紫色のハンカチを持っていたそうである。カルロ・ナイン嬢も最前、紫のハンカチを振っていた。又嘘か本当か知らないが、伝え聞くところに依ると、世界第一の美人として歴史に名高い埃及《エジプト》女王のクレオパトラも紫色が好きだったそうである。紫という色は、ほかの凡《すべ》ての色を打消して、自分の美を擅《ほしいまま》にするものだと何やらの本で見た事があるが、もしそうだとすれば絶世の美人と呼ばれる女の嗜好《しこう》は自然と一致するものではあるまいか。しかも絶世というのはこの世に一人か二人しか居ないという意味であるとすれば、もしやこの女は志村ノブ子であるまいか。
私は女の容色に魅せられたようになって、こんな柄にもない突飛な疑問を起しながらじっと女の顔を見ていると、女も気が付いたかしてはっとしたように私の顔を見上げた。そうして極り悪そうに俯向《うつむ》いたまま、席を立って出て行った。
後を見送った私は急に馬鹿馬鹿しくなった。志村ノブ子とは年が二十近くも違っている。おまけにこの女は処女である。処女でなければあんな風に軽い単純な吃驚《びっくり》し方をするものでない。そうして、あんな風に羞恥《はにか》んでおずおずと出て行くものでない。とにかく今日は妙な日だ。よく美しい女だの少年だのに会う日だ。
その中《うち》に女はどこへか行ってしまった。自分もそのまま席を立って楽屋の前を通り抜けた。楽屋は近いうちに建築される東亜相互生命保険会社の板囲いと背中合せになっていて、そこへ行くのには演技場内から楽屋口を通って行くのと、一度表へ出て裏口から這入るのと二つの道しかない。しかし演技場内から楽屋へ行く通路の近所にはいつも一人か二人の団員が居ない事はないからうっかり這入れば直ぐに咎《とが》められるにきまっている。
私は改札口に来て係りの女にちょっと用足しに出たいからと云ったら、女は返事をしないで直ぐ傍に腰をかけて、切符を勘定している小柄な、痩せこけた西洋人を見上げた。その男の耳は、よく進化論や遺伝学の書物の挿し絵に出て来るつんと尖《と》んがった動物耳で、見るからに無鉄砲な、冷血な性格をあらわしていたが、その恐ろしく高い鼻の左右から、青い眼をギョロギョロさして私を見ると、黙って……よろしい……という風に頷《うなず》いたまま、又一心に切符を勘定し初めた。その時にそこいらに立っていた二三人の丁稚《でっち》風の子供が、その西洋人と絵看板を見比べて、
「スタチオだ……スタチオだ……」
と囁《ささや》き合ったので、私はモウ一度振り返ってその横顔を記憶に止めると、何かしらヒヤリとしながら、大急ぎで人混みに紛れ込んだ。ちょっと虎口《ここう》を逃れたような気持ちになって……。
それから大きな天幕《テント》張りを故意《わざ》と遠い方にぐるりとまわって、東京駅の見える裏通りへ来ると、そこには厩《うまや》があって、凡《およ》そ三十頭位の馬が、共進会見たいに繋いであった。カルロ・ナイン嬢の白馬も向って右から七番目に居る。その前二間ばかりの処を、古い亜鉛《トタン》の低い垣で仕切って「入るべからず」と立札がしてあって、その垣の内外に山のように積んだ秣《まぐさ》の間から、楽屋の一部と、馬の出入口が見える。折よく人は一人も附いていないで、ただ通りかかりの者が十四五人立ち止まって、ぼんやりと馬の顔を見ているだけであった。
傾いた日光が大|天幕《テント》の左上から眩しく映《さ》して、馬の臭いや汚物の臭気が鼻を撲《う》った。
私は猶予なく三尺ばかりの亜鉛《トタン》壁をヒラリと飛び越すと、恰《あたか》も係りの者であるかのように落ち着いた態度で、馬をいじり初めた。一匹|毎《ごと》に鼻面を叩いたり、口を開かせてみたり、眼のふちを撫でたりしてやると、馬は皆|温柔《おとな》しくして私が噛ませる黒砂糖包みの錠剤を一粒宛呑み込んだ。この錠剤の内容は前にも一度説明した通り、俗に馬酔木《あしび》とかアセモとかいう灌木の葉から精製したもので、人間に服《の》ませると朝鮮人参と同様の効果があるが、錠剤にして馬に与えるときっかり二十分位で気が荒くなって、狂人《きちがい》のようになって暴れ出す。その代り精製してあるのだから副作用や何かはちっとも起さずに十分か十五分位であっさりと鎮まってしまうので、これはワザワザ陸軍の廃馬を使って実験したものだから間違いはない。
こうして都合よく誰にも見付からずに……見付かったら騎兵大佐の名刺を出して胡麻化《ごまか》すつもりであった……三十一頭の馬全部に、手早く錠剤を与えてしまうと、折柄、場内に哄《どっ》と大きな笑い声が起った。これは「大馬と小犬」の演技が初まっているので、この演技は、主役の支那人がなかなか上手《じょうず》だから、長くて四十分、短くて二十分以上は請合《うけあい》かかると嬢次少年は云った。その途中でこの厩の馬が一度に暴れ出す。……楽屋の者が総出で取り鎮めに来る。その隙に姿を換えた少年は、荷物部屋の奥に飛び込んでGEORGE《ジョージ》・CRAY《クレイ》と書いた真鍮張りのトランクを開いて、中にある黒い鞄を取り出して逃げるという計画である。
持主が自分の品物を持って行き易いように手伝ってやるのだから泥棒ではない。しかしこの行為の形式は金箔付きの泥棒の手先で、尠《すくな》くとも曲馬団に対する営業妨害という事だけは断言出来る。ついこの間まで法律の執行者だった私が、こんな事をしようとは夢にも想像しなかった。しかし、これも嬢次少年のためとあれば仕方がない。
元来私は初めての人間に出会うと、非常に警戒する性質《たち》で、善にまれ、悪にまれ、その人間の本性を底の底まで見抜いてしまった後でなければ、口を利きたくないという性分の男である。そうして一旦交際を初めても、暫くの間はその人間を疑問の圏内に保留しておいて、さり気なく様子を見ているので、この点から云えば私は思い切って卑怯な、疑い深い人間であった。……ところが今度ばかりはまるで調子が違っていて、私のそうした平生の性質とは全然正反対の事ばかりしている。まだ子供とはいえ素性の不確かな、しかも驚く程|悧巧《りこう》な人間を直ぐに信用して、その境遇に心《しん》から同情して窃盗の助手を甘んじて引き受けている。これは恐らく私の退職後の気の緩みから来たものかも知れないが、自分でも変だと思って考え直そうとすると、直ぐに少年のあの無邪気な、愛くるしい顔が眼の前に浮んで来て……何卒《なに
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