とぞ》私の生命《いのち》を保護して下さい。私が頼みにするお方は貴方より他にありませぬ……という声が耳底に聞えるように思われる。
 少年はその時私にこう云った。
「私はまだ一つ大切なものを曲馬場に残して来ております。私は是非それを取りに行かねばなりませぬ。それが敵の手にあるうちは、私は危険で一歩も外へ出る事が出来ないのですから……」
 と……。その時に私は、それが唯、黒いボックス革の手提鞄《てさげかばん》というだけで、中に何が入っているのか詳しく問い正しもしないまま直ぐに、
「それは私が取りに行ってやろう」
 と云った。それ位、私はこの少年に気乗りがしていたのである。そうして私が鞄を盗み出す方法について少年の意見を求めると、少年は深い感謝の眼付きをした。
「ありがとうございます。何卒それでは馬に薬を飲ませる仕事だけをお願い致します。馬さえ騒ぎ出せば、あとは私の方が勝手を知っておりますから仕事がしよいと思います。私は新宿から自動車で日蔭町へ行って、馬好きの学生か何かに化けて行くつもりですから……本当にお蔭で助かります」
 そう云った時の嬉しそうな子供子供しい眼付きと言葉は今でもありありと私の眼に残っている。それから私は少年を送り出すと、直ぐに変装をして家《うち》を飛び出して、警視庁《やくしょ》へ来て志免警視に面会して、
「近いうちに大仕事があるかも知れないから腹構えをしておくように……」
 と云い棄ててここへ来たので、後から思えばこの時の私は、嬢次少年を信用していたというよりも、寧ろその姿の美しさと、心根の真実さと、頭脳の明晰さに酔わされていたものと評すべきであろう。
 折から又一しきり場内でゲラゲラという笑い声がどよめいた。時計を出して見るとキッチリ三時十分である。今から約二十分の後《のち》――三時半前後には騒ぎが初まるのだ。私はズラリと並んだ馬の顔を一渡り見まわすと直ぐに亜鉛《トタン》塀を飛び出して、表の入口に来て、今度は切符を見せて無事に場内の特等席に帰った。私の背後《うしろ》に居た女優髷の女はまだ席に帰って来ない。大方私を不良老年と見て取って帰ってしまったのかも知れぬ。つまらない事をしたものだ。
 もう一度時計を出して見ると三時十三分になっている。厩から出てゆっくり歩きながらここまで来る間《ま》に三分かかっている訳だ。あとは僅に十七分間である。女の事なぞ考えている隙《ひま》はない。
 場内は一寸《ちょっと》居ない間《ま》に著しく暗くなって夕暗《ゆうやみ》のような色を漂わしている。これは太陽が雲に隠れたためで、見物は水を打ったように静かだ。演技場の真中には今、中位の象かと思われる巨大な白|葦毛《あしげ》の挽馬が、手綱も鞍も何も着けずに出て来て、小さな斑《ぶち》のテリア種の犬と鼻を突き合わせて何かひそひそ話をしている体《てい》である。そこへ赤白だんだらのピエロ服を着て骸骨のように眼鼻を黒くした小男が、抜き足さし足近づいて来て、妙な腰付きをして耳に手を当てがいながら、馬と犬の内証話を聞こうとした。これを見付けた犬は急に憤《おこ》ってワンワン吠えながら道化男に噛み付こうとする。道化男は危機一髪の間《ま》に悲鳴を揚げて逃げまわる。楽隊が囃《はや》し立てる。見物はただ訳もなく笑った。
 馬と小犬は道化役者《ピエロ》を楽屋口の柱の上に追い上げると又、広場の真中に来て内証話を初める。
 私は又時計を出して睨み初めた。もう二分経っている。あと十五分……。
 道化男は又、前の失敗を二度ほど繰返した。見物席に駈け上ったり、木戸口から飛び出したりした。しまいには馬の腹の下に這入って、前足の間から二匹の内証話を聞こうとした。それを犬が素早く発見して吠え付いた。馬は棹立《さおだ》ちになった。そうして二匹とも今度は勘弁ならぬという体《てい》で逐《お》いまわし初めた。
 あと十二分……。
 道化男は馬の腹の下や、前足や後足の間を飛鳥《ひちょう》のように潜り抜けて巧みに飛び付いて来る馬と犬を引っ外《ぱず》した。見物の中に拍手の声が起った。結局道化男は逃げ場を失った苦し紛れに裸馬に飛び乗った。馬は憤《おこ》って前に飛び横に跳ね、棹立ちになったり前膝を突いたりして、一生懸命に振り落そうと藻掻《もが》いたが、道化男はいつも千番に一番の兼ね合いで踏みこたえる。拍手の音が急霰《きゅうさん》のように場内一面に湧き起った。その響きの裡《うち》に道化男は、裸馬に乗ったまま犬に吠え立てられつつ楽屋の中に駈け込んで行った。
 ……三時二十分きっかり……。
 ……あと十分間……。
 ……私の胸の動悸が急に高まった。嬢次少年が云った最少限度の二十分よりも五分以上早く演技が終ったのだ。この次の「馬上の奇術」は演技者が居ないからやらない事は明白である。
 ……あとは順序通りに行けば、幕間《まくあい》二三分乃至四五分の後に始まるであろう、馬の舞踏会である。戦慄すべき馬の舞踏……。
 ……瞬間……おそるべき幻影がまざまざと私の眼の前に描き出された。
 ……場内に数十頭の裸馬が整列する……。
 ……その間に軽羅《うすもの》を纏うた数十名の美人が立ち交《こも》って、愉快な音楽に合わせて一斉に舞踏を初める……。
 ……けれどもそれは、まだ十分と経たない中《うち》に見る見る悽惨を極めた修羅場と化する……。
 ……数十頭の馬が突然棹立ちになって狂いはじめる……。
 ……噛み付く……。
 ……蹴飛ばす……。
 ……飛びかかる……。
 ……抱き倒す……。
 ……蹂《ふ》み躙《にじ》る……。
 ……数十名の美人は悲鳴を揚げて逃げ惑いつつ片端から狂馬の蹄鉄にかかって行く……肉が裂ける……骨が砕ける……血が飛沫《しぶ》く……咆哮……怒号……絶叫……苦悶……叫喚……大叫喚……。
 ……大虐殺の見世物……。
 ……活地獄《いきじごく》のオーケストラ……。
 ……私の罪……。
 ……肝魂《きもたま》が消え失せるとはこの時の私の事であったろう。頭の中がグワーンと鳴った。眼の前に灰色の靄《もや》がズ――ウと降りて来た。立ち上ろうとしたが膝が石のように固まって動かない。叫ぼうとしたが胸が鉄より重くなって呼吸《いき》が出来ない。やっとの思いで、わななく手を額に当てたが、その額は硝子《ガラス》のように冷たかった。
 忽ち粗《まば》らな拍手が起った。その音に連れて、眼の前の靄がズ――ウと開いた。楽屋の入口から燕尾服《えんびふく》を着た日本人と、水色の礼服を着たカルロ・ナイン嬢が静々と歩み出して来るのが見えた。
 私は長い、ふるえた溜息をホ――ッとした。同時に全身の緊張が弛んで、腋《わき》の下から滴《したた》る冷汗を押える事が出来た。
 ナイン嬢と燕尾服の男は広場の真中まで来ると並んで立ち止った。
 二人が見物に対して丁重な敬礼を終ると、ナイン嬢が流暢《りゅうちょう》な英語で左《さ》の意味の事を述べた。
「……満場の淑女……紳士方よ……。
 妾《わたし》は先ほど皆様にお目見得致しまして、拙《つたな》い技を御覧に入れました露西亜《ロシア》少女カルロ・ナインでございます。
 わたくしは今、バード・ストーン曲馬団の団員一同を代表致しまして、謹んで皆様にお詫び致さなければなりませぬ事が出来ましたのを深く深く遺憾に存じている者でございます。
 わたくしは包まず申上げます。
 この一座の花形として、皆様から一方《ひとかた》ならぬ御贔屓《ごひいき》を賜わっておりました、あの伊太利《イタリー》少年のジョージ・クレイはどうした訳か存じませぬが今朝《けさ》から行方がわからない事に相成りました」
 嬢がここで一寸息を切ると場内の処々《しょしょ》に軽い……けれども深い驚きの響きを籠めた囁きの声が、悲風のように起った……と思ううちに又ピタリと静まった。
「それで団員一同は八方に手を別けて探しているのでございますが、只今になりましてもやはり、その行方が判らないのでございます。……でございますから私共団員一同は、私共の不注意のために、折角皆様が楽しみにしておいでになりました、お眼当ての演技を、今日の番組から除かなければなりませぬのを深く深くお詫び申し上げなければなりませぬ。
 申すまでもなく警察方面にもお願いして、出来るだけの事を尽して探しているのでございますから近いうちに皆様の御満足になるような結果を得られます事と、わたくし共は固く信じております次第でございます。……それで誠に失礼な、又は身勝手千万な致し方とは存じますが、せめて今日の不都合のお詫びの印と致したい心から、この次に御買求めになります切符の半額券を、お帰りの節に入口の処で差上げる事に致しておりますから、何卒御遠慮なくお持ち下さるようにお願い致します。
 実は団長のバード・ストーンが自身に皆様にお詫びを致しまして、このような御挨拶を申上げなければ相済みませぬのでございますが、只今その事で、警察から横浜の方へ参っておりますから、不調法ではございますが、わたくしが代りまして、お詫びをさして頂く次第でございます。
 かような訳で、わたくしども団員一同は、ジョージ少年が帰って参りますまで、全力を挙げまして新番組を色々差し加えまして皆様の御機嫌を取り結ぶ覚悟でございますから、何卒《どうぞ》わたくし共一同の佯《いつわ》りのない赤心《まごころ》をお酌み取り下さいまして、この上とも末永く御贔屓を賜わりますように、団員一同を代表致しまして、わたくしから幾重にもお願い申上る次第でございます」
 それは僅か十五六の少女にしては立派過ぎた挨拶ぶりであった。多分ハドルスキーか何かが教えたものであろうが、それにしてもよくこれだけ整って記憶出来たものである。更にこれを述べた嬢の態度は、実に真情に満ち満ちていて、衷心から……相済みませぬ……という感情に充たされていたために、英語の解らぬ人々までも同情を惹いたらしくあとで傍に立っている燕尾服の男が通訳をすると、皆割れるような喝采をして嬢の謝意に対する好意を表した。
 けれどもその喝采の声は間もなくぴたりと止んだ。見物一同の眼はこの時、嬢と燕尾服の男を離れて、楽屋口から二人の人夫に運び出されて来る高さ二間幅一間ぐらいの大きな立看板に集まった。その表面には墨黒々と左《さ》のような文句が記されて、赤インキで二重圏点が附けてある。

[#ここから表罫囲み]
 三万円の懸賞[#特大文字、二重丸傍点]
  ジョージ・クレイを見知り給う人々に急告す。
今後一週間以内にジョージ・クレイの居所を通知し賜わりたる方々には先着者に一千円[#「一千円」は大文字、太字]を、その他の方々に五百円宛[#「五百円宛」は大文字、太字]を贈呈す。又同少年を同伴し賜わりたる御方には現金三万円[#「現金三万円」は大文字、太字、「三万円」に二重丸傍点]を贈呈す。尚、同少年を御見識りなき方々は表の絵看板を御覧ありたし。
   麹町区内幸町帝国ホテル内
   バード・ストーン曲馬団事務所[#大文字、太字][#地付き]
[#ここで表罫囲み終わり][#表罫囲み内の特に注記のない文字は中文字]

 見物一同は暫くの間鳴りを鎮めてこの立看板を見詰めていたが、やがて前とは違った深い驚きのどよめきが一隅から起って、忽ち見物席の全部に及んだ。
 三万円……高が一少年の行方を求むるために三万円の懸賞……あの少年が出場しないという事は、それ程にこの曲馬団に打撃を与えるのであろうか。一介の少年ジョージ・クレイの技術はそれ程に価値のあるものであろうか。そうして又、何という手早い、思いきった処置の取り方であろう。少年の失踪は今朝《けさ》の事ではないか……というような意味の驚きのどよめきでそれはあったろう。これは無理もない話で、事情を知っている私でさえもちょっと驚かされた位である。
 人夫は立看板を抱えたまま、見物の前二三間の処まで来て場内を一周した。最後にこの掲示が見物席の正面、楽屋の出入口に持って行って、あとから出来上ったらしい赤インキの滴《したた》り流れた英文の立看板と一緒に立てかけられると、いつの間にか楽屋に引込んでしまった
前へ 次へ
全48ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング