心の「淋しさ」が「一層深い淋しさ」を求めるからであろうと思う。だからこの草茫々たる荒地の中に立っている、見すぼらしい西洋館は、このような性格の主人に最も適当した住居《すまい》で、同時にその主人公の背の高い、青黒い、陰気な風采と、この上もなくしっくりしているに違いないと思う。
 私は帽子と外套の塵を払って、買って来た烏龍《ウーロン》茶の包みを取り上げる迄に、これだけの事を考えた。別段、今更に考え直す迄もない事であるが、現在世にも珍らしい少年が、滅多《めった》に人を迎え入れた事のない私の家《うち》に、何の苦もなく侵入して来て、応接間で私を待っている……という事実に対して、何となく心が動いたために、今更に自分の孤独な生活が自分の眼に……否、心に浮み出たのである。そうして気のせいか少年は、こうした私の生活や、性格や、事によると経歴までも知っているように思われてならなかった。
 ……が……しかし果して知っているであろうか。それともこっちの顔と名前だけを知っているのであろうか。そうして一体何の用事で来たのであろう。どこの者であろう。日本人か西洋人かすらまだハッキリわからないのだが……怪しくも亦、不思議な少年……。
 ……イヤ、これはいけない。こんなに想像ばかりしているようでは駄目だ。今日は頭がどうかしているらしい。いつもの自分にも似合わないトンチンカンな頭の使い方ばかりしている。事によると彼《か》の少年に眩惑されているせいかも知れないが……職務を離れるとこうも頭がだらしなくなるものか知らん。それにしても不思議な魅力を持った少年ではある……。
 ……イヤ……いけない。又少年の事を考えている。何にしても早く会ってみる事だ。そうして自分一流の的確な推理を働かしてみる事だ……。そうだ……。
 こんな風に自問自答しているうちに私は応接間へ大胯《おおまた》で帰って来た。見ると少年は瓦斯《ガス》ストーブに最も遠い入口の処の椅子に片手をかけて立っていたが、私がずっと中に這入って窓際に据えた大机の前に来ると、私に正面して姿勢を正しながら静かに目礼をした。
「さあお掛けなさい」
 と云いつつ私はデスクの前の古ぼけた肘掛椅子に腰をかけたが、少年は遠慮して容易に椅子に就かなかった。しなやかな不動の姿勢を取って、すこし含羞《はにか》みながら立っていた。
「私が狭山です。何の御用ですか」
 と私はその顔を見上げながら、私一流の厳格な態度で訊ねた。
 実をいうとこの時に私は、この少年に対して一種の不安と不愉快とを感じ始めていた。これは非常に得手勝手な話であるが、つまり私はこの少年のために、前に述べたような孤独な生活の安静を妨げられるような事になりはしまいかという虞《おそれ》を十分に感じ始めていたからで、さもなくともこの少年が、私に与えた驚きと疑いは、今まで実験の事で一ぱいになっていた私の頭を掻き乱すに十分……十二分であったからである。だから一刻も早くこのような妙な来客を逐《お》っ払ってしまいたい。そうして急いで彼《か》の「馬酔木《あしび》の毒素」の定量分析に取りかかりたいというのが、この時の私の何よりの願望であった。
 けれども少年は平気であった。大抵の人間ならば、こうした私の態度を見ただけでも怖気《おじけ》が付くか、不快を感ずるかする筈なのに、この少年は恰《あたか》も、私がこんな態度を執《と》るのを予期していたかのように、相変らず唇の処に懐し気な微笑を含みながらポケットに手を突込んで一枚の古新聞紙を出した。それは余程古くから取ってあったものらしく、外側の一|頁《ページ》はもうぼろぼろになっていたが、その折目を一枚一枚丁寧に拡げて行って、最後に頁の真中に赤丸を付けた処が出て来ると、そこを表面にして折り畳んで私の前に恭《うやうや》しく差し出した。受け取って見ると、それは大正七年……一昨年の十月十四日の曙《あけぼの》新聞の人事広告欄で、赤丸の下には次のような広告が出ていた。

[#ここから3字下げ、15字詰×5行]
◇助手[#「助手」はゴシック体] 入用薬物研究物理化学初歩程度の知識要十七八乃至二十四五歳迄の男子月給二〇住込通勤随意履歴書身元保証不要毎日後五時本人来談に限る柏木一五一二狭山
[#ここで字下げ終わり]

 これは一昨年の秋、私が妻を亡くして悲歎の余り、研究に没頭して凡《すべ》てを忘れようとした時に、東都日報と、曙新聞と、東洋日日に出した広告の一つで、これを見るとまざまざとその時の事を思い浮べる。この時分の私の頭は余程変になっていたものと見えて、随分|杜撰《ずさん》な広告を出したもので、この広告のために私は、それから後《のち》一箇月ばかりの間というもの毎日毎日私の帰りを待ち受けている浮浪人や乞食同様の連中に悩まされ続けたものであった。実は柏木の狭山といえば多分、誰でも私の職務上の名声を知っている筈だから、滅多な者は寄り付くまいと思って履歴書、身元証明不要と出しておいたのであるが、案に相違して碌《ろく》なものはやって来なかったので、私は些《いささ》かならず自尊心を傷けられたものであった。その思い出の広告をこの少年は、今までどうして持っていたものであろう。
「この広告は私が出したものに違いありませんが、貴方はどうしてこれを持っていましたか」
「紐育《ニューヨーク》の中央郵便局で見付けました」
「……え……紐育の中央局で……」
「はい。私がそこのボーイになっておりますうちに受取人のない小包郵便を焼き棄てるのを手伝わされた事があります。私達はその小包を焼き棄てる前に一つ一つ開いて、危険なものだの貴重品だのが入っていないかどうかを係りの人に見てもらうのですが、その時に取棄てた包紙の中にこの新聞が混《まじ》っていたのです」
 少年の言葉は益《ますます》出でて益異様である。しかしこのような余り人の知らない内情を知っているからには作り事ではないらしい。のみならずこの少年が純粋の日本人らしいという事は、故郷の新聞を懐かしがる行為と、その軽快な混《まじ》り気《け》のない発音で、もはや殆んど確定的であると考えた。同時にその簡潔を極めた要領を得つくした説明ぶりに、又もや感心させられてしまった。
「ははあ……そんなに日本が懐かしかったのですか」
「はい。そればかりではありません。私はずっと前から日本語を勉強しておりまして、日本文字のものならば印刷したものでも書いたものでも何でも構わずに集めておりました。その中でも日本の新聞は、日本の事を研究するに一番都合がよかったのです」
「ふむ。……ではその広告が眼に止まった理由は……」
「私は……貴下《あなた》に雇って頂きたいのです。……あなたは……まだ……助手を……お持ちに……ならないのでしょう……」
 少年はこう言って急に口籠《くちご》もりながらじっと私の顔を見た。その黒い瞳《め》は熱誠にまばたき、その白い頬は見る見る真紅《まっか》に染まって来た。その一瞬間、私はこの少年の美しさで全神経を蔽《おお》われたような気がして眼を瞑《つむ》ったが、やがて又見開いて見ると、少年はいつの間にか伏目勝ちにうなだれていた。そうして片手を椅子にかけたまま、謹んで私の返事を待っているらしい。その頬も白くなって、唯、可憐な淋《さび》しい風情を示しているばかりである。
 私は思い惑わざるを得なかった。何だか古い借銭の催促を受けているような気がして、今更にこの広告を出した時の乱れた、悲しい気持ちを思い出させられた。そうしてこの少年をここに連れ込んだ事を、深く後悔せずにはいられなかった。何故もっと早く、徹底的に厳格な態度を執って面会を断らなかったろうと思った。……けれども最早《もう》、ここまで来た以上は仕方がない。この少年は私が二年前に出した広告をいつまでも……私が息を引き取る間際までも有効だと一図《いちず》に信じて来ているらしい。だから迷惑ではあるが一応の責任は負わねばならぬ。そうして……今は助手の必要がなくなった。そんなに古い広告をいつまでも当てにしているものではない……という意味を、何とか相手が満足するように云って聞かして帰さねばならぬ。
 私は稍《やや》態度を和《やわら》げて訊ねた。
「……あなたのお住居《すまい》は……」
 少年は顔を上げた。依然として謹んだ態度で答えた。
「……私は家《うち》がないのです。両親も何もない一人ぽっちなのです。……ですから貴下《あなた》に雇って頂いてお宅に住まわせて頂きたいと思って来たのです……」
 そう云ううちに少年の両眼に涙が一ぱいに滲み出た。それにつれて顔の色が又さっと赧《あか》くなった。
 何という率直な言葉であろう。何という真面目さであろう。この少年は二年前に出た新聞広告を、今|以《もっ》て有効と思っているばかりでなく、その掲載事項の中にある履歴書、身元証明不要という文句までも裏表なしの真実と信じているらしい。そうして……是非雇って下さい……という熱心な希望を、どこまでも貫徹する決心でいるらしい。
 私はほとほと持て余してしまった。そうして改めて、少年の異様な贅沢な身装《みなり》を見上げ見下していると、少年は暫く躊躇しているようであったが、やがて言葉を継ぎ足しながら低頭《うなだ》れた。
「……けれども……ただ……これだけは申上げる事が出来ます。私の本籍は紐育《ニューヨーク》市民ですが、両親の顔をよく見覚えませぬ中《うち》から、軽業師に売られました。それから活動役者や、その他の色々な芸人に売りまわされて、支那人になされたり、西班牙《スペイン》人として取扱われたり、そうかと思うと芝居の日本娘になって歌を唄わされたりしておりますうちに、いつの間にか自分がどこの人種だかわからなくなってしまいました。紐育の中央郵便局に居りましたのはその途中で逃げ出していた時分の事で、頭髪《かみ》を酸化水素で赤く縮らして、黒《くろ》ん坊《ぼ》香水《こうすい》を身体《からだ》に振りかけて、白人と黒人の混血児《あいのこ》に化けていたのです。けれども自分では日本人に違いないと思いましたから、それをたしかめるために日本に帰って来たのです。ですから私は履歴書も、身元証明も、保証人も何もありません。ただ私の身に附いた芸が、私の履歴や身元を証明してくれるだけです」
「フーム。成《な》る程《ほど》……」
 と私はうなずいた。この少年の頭の良さに釣り込まれないように警戒しながら、なるたけ少年の困るような質問を探し出した。
「……それではこの広告の中に……薬物研究、物理、化学初歩程度の知識が必要……と書いてありますが君はどの程度まで研究しておりますか」
 これは少年の経歴が話の通りならば、屹度《きっと》学校に入ってはいまい。入っていないとすれば物理化学や、薬物なぞいう高等な研究に対して組織立った知識は持っていない筈だ……と見当を付けたからである。少年は果して赤面した。そうして云い難《にく》そうに口籠《くちご》もった。
「……はい……僕の研究が本物かどうか知りませんけど、私はその広告を見てから急に思い立って薬物と、物理と、化学を勉強し初めました。物理は実験なしでも大抵わかりましたけれど化学は空《くう》ではなかなかわかりませんでしたので中学《ハイスクール》の校長さんにお願いして、自分で薬を買って実験さしてもらいました。初めはなかなか難かしかったんですけど、そのうちに周規律を諳記してしまいますと素敵に面白くなって、じきに有機化学の方へ入りました」
「……ウ――ム……」
 と私は唸《うな》り出した。この少年の正則の勉強方法を否定出来なくなったので……。
「それはつまり僕に雇われたいから勉強したんですね」
「……ええ……初めはそうだったんですけど、後《あと》にはそればっかりでなくなりました」
「本当に面白くなったんですね」
「……はい……」
「有機の中《うち》では何が一番面白かったですか」
「毒物の研究が一番面白う御座いました」
「えッ……毒物?……」
「はい……」
 私は眼を丸くしない訳に行かなかった。
「……どうして毒物が面白いのですか」
「最前お話ししまし
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