が現われているようであるが、それが又|却《かえっ》てこの少年の無邪気な表情を、一際異様に引き立てていて、日本人としては余りに綺麗に、西洋人としてはあまりに懐《なつか》しみの深い印象を与えている。全体としては絵画や彫刻にも稀な、端麗な少年と云って、決して誇張でないであろう。
 これが私を「おや」と思わせた第一の印象であった。
 しかし、単に容貌を見ただけで相手を評価するのが大間違いである事は、多年の経験で知り過ぎる位知っている私であった。だからこの少年の容貌の端麗さに驚かされた私の眼は、その次の瞬間に、本能的に少年の服装に移って行ったが、これも亦、際立って異様で、見事なものであった。
 英国製らしい最上等の黒|羅紗《らしゃ》に、青|天鵞絨《ビロード》の折襟《おりえり》を付けた鉄釦《てつぼたん》の上衣を、エナメル皮に銀金具の帯皮で露西亜《ロシア》人のように締めて、緑色柔皮《グリーンレザー》の乗馬ズボンを股高《ももだか》に着けて、これもエナメル皮の華奢《きゃしゃ》な銀拍車付きの長靴を穿《は》いている。右の手には美術家が冠《かむ》るような縁の広い空色羅紗の中折帽に、その頃はまだ流行《はや》らなかった黒|皮革《かわ》の飾紐《リボン》を巻いたのを提げて、左手には水のようなゴム引き羽二重《はぶたえ》の雨外套《レインコート》とキッドの白手袋と、小さな新聞紙包を抱えながら、しなやかな不動の姿勢ともいうべき姿で立っている。
 全体の仕立の好みからいうと米国風であるが、着こなしの感じからいえば中欧あたりの貴族の子弟のようにも思われる。伊太利《イタリー》辺の音楽師を見るような気持ちもするが、さてどこの人間かを判定しようとなると、チョット見当が付きにくい。
 これが私が驚かされた第二の印象であった。
 けれども、それよりももっと大きな眼を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、17−14]《みは》らせられて、もっと深く感歎させられたのは、その服の仕立のいい事と、その持ち物の一切合財《いっさいがっさい》が、鋏《はさみ》と剃刀《かみそり》の痕《あと》の鮮かな頭髪に到るまで、一つ残らず卸《おろ》し立てである事であった。
 恐らく日本中のどこの洋服屋でも、こんなに品よく、ピッタリと仕立上げる事は出来ないであろう。腋《わき》の下の縫い目などに十分のユトリと巧妙味《うまみ》を見せているところだの、上衣に並んだ十個の鉄釦と、ズボンのふくらみとの釣合いに五分の隙《すき》もないところなぞを見ただけでも、たしかに外国仕立で、しかもこの種類の服装を扱い慣れた専門家の手にかけたものと判断しなければならぬ。こうしてこそ初めて服装は肉体美を更に美化するものという事が出来よう……否……単に服装ばかりでなく、この少年の持物の全体を通じて何一つ上等でないものはない。そうして更に驚くべき事には、その服も帽子も、オリーブ色の雨外套《レインコート》も、染料の香気がまだプンプンしているらしい仕立卸しで、硝子《ガラス》のように光っているエナメル靴の踵《かかと》までも、たった今土を踏んだばかりのように一点の汚れも留めていない事であった。
 私は少年の異様に白い顔と、この服装とをモウ一度見上げ見下した。これはどこかの洋服屋の飾窓《ショーウインド》の中に在る蝋人形がそのまま抜け出して来て、ここに立っているのではないか……とあられもない事まで疑った。けれどもその黒く霑《うる》んだ瞳と、心持ち微笑を含んだ唇が明かに私のこうした妄想を裏切っている事を認めない訳に行かなかった。
 ……不思議だ……わからない……。
 私がここまでこの少年に就《つ》いて観察して来たのはほんの二三秒ばかりの間の事であった。こうして二十八の年から四十九歳の今日《こんにち》まで警視庁に奉職して、あらゆる難問題を解決して、鬼|狭山《さやま》とまで謳《うた》われた私の眼力は、この少年の五尺二寸ばかりの身体《からだ》を眼の前に置きながら、遂に何等の捕えどころも発見し得なかった。僅かに発見し得たものは皆、驚きと感心の材料になるばかりであった。
 ……一体この少年は何者であろう。
 ……外国人か、日本人か、それとも混血児か。
 ……どこから来た者であろう。
 ……何しに来たものであろう。
 ……特に自分に対して何の用があって来たのであろう。
 私は今一度ジット少年の顔を見た。
 あとから考えるとこの時の私の眼は、嘸《さぞ》かし鋭い光りを放っていたであろうと思う。
 私は今まで、たった一眼見ただけで、その人間の職業や性格は愚な事、その経歴まで見破った例が少くないが、それだけに私の眼は鋭い光りを放っていた。嘗て或る脱獄囚が、立派な紳士の服装をしているのを、どこかの職工が金でも儲けたのか知らんと思って見ていたら、その男はいきなり私の傍へ来てパナマ帽を脱いで、
「何卒《どうぞ》宜しくお頼ん申しやす。私《わし》で御座いやす。貴方《あなた》のその鋼鉄のような眼で睨まれちゃ、逃げようにも逃げられません」
 と云った位である。況《ま》してこの時は、たかが一介のビショビショ少年の正体を見破る事が出来なかったのみならず、あべこべに驚かされ、迷わされ、感心させらるるばかりで、手も足も出なくなった口惜しささえ感じていたのだから……そうして初対面の作法も何もかも忘れて睨み付けていたのだから必ずや容易ならぬ眼色《めいろ》をしていたに違いないと思う。
 ところが少年は、そうした私の眼の光りに射られながらちっとも臆した色を見せなかった。ただ持ち前の無邪気な、落ち着いた眼付きで私を見上げていた。……のみならずその黒い大きな、二重瞼の眼はこんな事を云っているようであった。
「貴方が私を御覧になるのは只今が初めてでしょう。けれども私はずっと前から貴方のお顔を知っていたのですよ」
 ……と……。又その素直な恰好のいい鼻は、
「私がここにお伺いしましたのは大切な用事をお願い申上げたいからですよ」
 という意味をほのめかしたようであった。そして又、その人懐《ひとなつ》こい可愛らしい締った唇は、軽い微笑を含んで無言の裡《うち》に云っていた。
「私は只今初めて貴方と言葉を交す機会を得たのを大変に嬉しく思います」
 ……と……。そうしてその身軽そうな均整《ととの》った身体《からだ》つきは、
「貴方をどこまでも正しい、御親切な方と信じております。貴方を深く深く尊敬しております」
 という心持ちを衷心《ちゅうしん》から表明しているかのように見えた。
 正直なところを白状すると、私は、こんな風に落ち着いた少年の態度を見れば見るほど、心の底で狼狽させられたのであった。あとから思い出しても顔が赤くなるくらいイライラさせられたのであった。相手は自分をよく知っていて、すっかり信用して落ち着いているのに、こっちは少しも相手がわからないでいるばかりでなく、ただ無暗《むやみ》に驚いて、感心して、疑って、躊躇《ちゅうちょ》しているのが、我身ながら恥かしくて腹立たしいような気がしたのであった。正直のところこんな心持ちを味わったのはこの時が初めてであった。
 これだけがこの少年に対する私の最初の印象であった。
 折から門内に高く聳《そび》ゆるユーカリ樹の上を行く白い雲が、春近い日光をサッと投げ落して、枳殻《からたち》の生垣と、その前に立った少年の肩とを眩《まぶ》しく照し出した。
 少年と向い合ったまま黙って突立っていた私は、その時にやっと吾に帰った。
「何か御用ですか」
「ハイ」
 と少年は即座に答えたが、その声調はハッキリした日本語のように思えた。そうしてポケットから名刺を一枚出して謹んだ態度で私に渡した。それは小型の極上|象牙紙《アイボリイ》に新活字の四号で呉井嬢次《くれいじょうじ》と印刷したもので、裡面《りめん》を返してみると印刷かと思われる綺麗なスペンシリア字体で George, Cray. と描いてある。所番地も何もない。
「ジョージ。クレイ」
 と私は心の中で繰り返した。外国人か日本人か依然としてわからない。疑問はどこまでも疑問である。日光が名刺の表に反射して活字が緑色に見えて来た。同時に少年の唇に含まれた微笑が一層深くなった。
「こっちへお這入《はい》りなさい」
 と云い棄て、私は青ペンキ塗《ぬり》の門の中へ這入った。

 赤い芽を吹きかけているカナメの生垣の間に敷き詰めた房州石の道を五間ばかり行くと、やはり青ペンキ塗の玄関になっている。その扉《ドア》を鍵で開いて内部に這入ると少年も続いて這入った。
 この家《うち》は或る石油会社へ奉職する西洋人夫婦が、本国へ引き上げたあとを譲り受けて、自分でペンキを塗り換えたり何かして、手を入れて住み込んだもので、玄関の左の六坪ばかりの室《へや》を書斎兼応接間にして、その奥を台所に宛てている。私は少年をその書斎兼応接間に通じて瓦斯《ガス》ストーブに火を入れた。それから玄関の右手の寝室に這入って外套《がいとう》と帽子を脱いだ。寝室の奥は私の研究室、兼、仕事場になっていて、色々な機械や、有機化学なんどに関する書物が雑然と並んでいる。私の家にはこの四室しかないのである。
 私はこの中《うち》で純然たる独身生活をやっている。洗濯や調理は勿論の事、屋根の修繕から芝生の手入れまで自分で遣《や》る。雇人は一人も居ない。何故そんなに面倒臭いことをするかと訊ねる者もあるが私は少しも面倒と思わない。却《かえ》って暢気《のんき》で、静かで、自分の性質に合っているとさえ思っている。
 生れながらの孤児である私は、外国で長い事、この生活を続けて来た。日本に来て妻帯してからは暫くの間止めていたが、一昨年その妻が、一人も子供を残さずに死んでから又昔の生活に帰った。だから私は日本中は勿論の事、外国にも血縁の者が居ない。居るかも知れないがまだ尋ねて来ないし、こっちから探した事もない。又友達から二度目の妻帯を勧められた事もあったが、私は一度も応じなかった。だから私は勢い孤独の生活を過さなければならなかった。
 友達は皆私を変人とか仙人とか云ったが或《あるい》はそうかも知れぬ。又ある者は一種の疳癪《かんしゃく》持ちと評したが、これはたしかに事実である。私が警視庁に在職中、あらゆる仕事を我流一点張りで押し通したために、社会の暗黒面に住む人間ばかりでなく、部下の警官連や、上官にまでも恐れられていたらしい事は、新聞の下馬評や何かにも屡々《しばしば》伝えられたところで、従って最近に至って、上官と大衝突をやって退職したのもこの疳癪が大原因を成している事は自分でもよく知っている。吾ながら損な性質だと考えている位である。
 しかし私がこのような性質になったのは決して生れ付きではない。英国で両親を喪《うしな》ってから日本に来る迄の二十何年の間、あらん限りの苦労を重ねて……この世には悪人ばかりしか居ないものか……と思う程《ほど》酷遇《いじめ》られたために自然とこんな風に一徹《いってつ》な……自分の事はどこまでも、自分の流儀で勘定を合わせて行く……という一種の勧善懲悪的な思想の中に逃げ込んでしまった。そうしていつの間にか「嘘を云う心の変る社会人間」よりも「嘘を云わず、永久に心の変らぬ科学実験の機械」を相手に造化の秘奥を探る方が、はるかに安全で気楽だと思うようになったので、この意味から云えば警視庁の仕事は衣食のために止むを得ず、研究の隙《すき》を割《さ》いてやっているに過ぎなかった。
 こんな風だから私は真実《ほんとう》の孤独の生活で友達といっても信頼する部下以外に、これという程の者もない。殊にこの間職を罷《や》めてからというものはこの「不正を憎む心」と「淋しさを楽しむ性質」が一層烈しく募って来て、朝から晩まで顕微鏡や、ビーカーや、天秤《てんびん》を相手に明かし暮らすよりほかに楽しみがないようになった。そうして、これを妨げる者があると非常に腹が立つので、来客を好まぬは愚か、程近い幼稚園の唱歌までも折々は「うるさいなあ」と舌打ちをする位になった。これは一つは五十近い年のせいでもあろうが、もう一つには私の
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