ございます事は、妾が世にも恐ろしい夫殺しの犯人でない事でございます。
 その仔細は、詳しく申上げますれば数限りもございませぬが、その荒ましは先刻お手に入《い》りました新約聖書の中の暗号文にてお察しの事と存じます。妾の夫、仮名岩形圭吾事、志村浩太郎と妾こそは、共々に、米国|紐育《ニューヨーク》に本部を置き、ウルスター・ゴンクールと申す人を首領と致しております秘密結社J・I・Cの一員に相違ございませぬので、これは最早《もはや》、お隠し申上げるまでもない事と存じます。
 さてとや、この、J・I・C結社の性質と申しますのは、最早、御承知の御事《おんこと》とは存じますが、当座の申開きのため、あらましを申述べさして頂きます。
 妾が今日まで心得ておりましたところによりますと、この結社は、米国人が建国以来の理想と致して参りました正義人道と、平和愛好の精神から生まれ出たものと申し聞かせられております。でございますから、その仕事と申しますのは、普通に流行致しております声ばかりの平和運動と違いまして、世界各国の好戦的の行動をあらゆる直接の方法で妨害致しまして、一切の内政と外交を、経済的手段だけで解決しなければならぬように仕向けることでございます。そう致しまして只今の世界の経済状態が、他国民の不幸は、直ぐにそのまま自国民の不幸と変化して襲いかかって来るようになっております実情をハッキリと各国民に悟らせまして、世界中を米国と共通共同の経済団体と変化致し、互に相扶《あいたす》け合いまして、二度と再び、只今の欧洲大戦のような大惨事を惹《ひ》き起さないように努力致します目的の下に、米国に居住する各国人種によって組織されておるものと承わっております。
 そのような次第でございますから、申すまでもなく、J・I・Cの事業は、只今|露西亜《ロシア》に流行し初めております過激思想などとは全く正反対の思想でございまして、米国内の各州がそれぞれ独立自由の政治を営んでおります通りに、各国、各人種の宗教と、政体と、階級制度とをそのままに認めながら人類社会の平和と幸福を計るのを理想と致しておるのでございますが、只今のように各国の政策が、戦争よりほかに平和の保ち方を存じませぬ軍閥と、資本家の手で支配されております世の中では、過激思想と同様の誤解を受けまして、恐ろしい反対と、迫害を加えられる虞《おそ》れが十分にございます。それで、J・I・Cの団員は、あたかも羅馬《ローマ》に於ける最初の基督教の布教者と同様の厳重なる秘密組織と致しまして、団員は一人一人に殉教者となる覚悟をもちまして各国に紛れ入り、その国の好戦的準備を妨害致す仕事を致しておりますので、妾の夫志村浩太郎は、その西部首領の仕事を引き受けておりましたものでございます。
 又、一方に、その志村浩太郎の妻と相成っておりました妾《わたし》は、或る恐ろしい事情のため、久しい以前から夫と、一人子の嬢次と三人、離れ離れになっておりました者で、その後、寡婦と同様の境遇に陥りました妾は、夫と愛児の行方を探すために、色々と辛苦|艱難《かんなん》を重ねました後《のち》に、J・I・Cの情報主任と相成りまして日本に参り、××大使のお世話で当教会を借り受け、日曜|毎《ごと》に説教を致します体《てい》を装い、日本内地に働いております、J・I・C団員の情報を集配《レポート》致しておったのでございますが、その傍《かたわ》ら、古い縁故を辿りまして外務省の英文タイピストの職に就き、日本の機密に属する暗号電報を盗み写しまして、米国紐育イースト・エンドのJ・I・Cの本部に送達致す仕事を受け持っていたのでございます。これは妾と致しまして誠に申訳もない浅ましい所業でございまして、このために貴方《あなた》様からお仕置を受けますような事に相成りますならば、少しもお怨み申上げる筋はないのでございますが、「世界の平和のため」という美しい標語に眼を眩《くら》まされておりました妾はついこの頃まで少しもそのような罪に気付きませず、むしろ日本のためと存じまして、非常な善《よ》い事を致しておりますような気持で、暗号電報の盗読を仕事と致しておったのでございます。
 ところが、そのような愚しい仕事を致しつつこの二三年を打ち過しておりますうちに、妾の斯様《かよう》な所業が、人間として最も浅ましい売国の重罪に当りますばかりでなく、J・I・Cの仕事の内容そのものが世界の平和と、正義人道のために許すことの出来ませぬ、最も憎むべき性質のもので、妾の夫と愛児と、日本民族とを同時に亡ぼそうとしているものでございます事が、判然致します時機がまいりましたのでございます。
 それはほかでもございませぬ。
 本年六月の初め頃になりましてJ・I・Cの西部首領と相成っております有力な日本人、K・NO・1(J・I・Cの仲間では首領のW・G氏以外は本名を明かしませずに番号ばかりで通信する規則になっておりますので、止むを得ませぬ時に仮名を使うだけでございます)と申す者が、或る重要な要件のため、外交界でよく申します「暗黒公使《ダーク・ミニスター》」と相成りまして、東洋方面に出張する事に相成りました旨、妾の手許に情報が参りました。それと同時に、その先発として、やはりJ・I・Cの一人となっております自称|樫尾初蔵《かしおはつぞう》と申す者が、J・I・Cの東部と西部と双方の首領の護照《ごしょう》を持ちまして、去る六月の末頃から日本に参りまして日本のJ・I・Cに属する日、鮮、支人の身元と消息を詳しく取り調べ初めたのでございます。
 さて、この樫尾と申す者は、如何様《いかよう》な人物かと申しますと、若い折は露西亜人を装いまして彼得堡《ペトログラード》に入り込み、明石《あかし》大佐の配下に属してウラジミル大公の召使に住み込み、軍事探偵の仕事を致しておりました者で、日露戦争後は引き続き日本政府の信任を受けまして米国に入り、各種の秘密結社の内情を探っておりますうちに、前に申上げましたJ・I・C東部首領、W・ゴンクール氏と仲よく相成り、J・I・Cに加入いたしました人物と申すことが、後になって判明致しました。しかし最初のうち樫尾はそのような事を気《け》ぶりにも見せませず、ただJ・I・Cの仕事に就きまして色々と親切な忠告をしてくれましたので、私もこの二三箇月は何となく心強く存じておりました次第でございます。
 そのうちに時日が経過致しまして今月に相成りますと、J・I・Cの西部首領、K一号こと、仮名、中村文吉が五日横浜入港の阿蘇丸にて来着致します旨を電照して参りました。それと同時に私に宛てました、J・I・C首領、W・ゴンクール氏の名前で――中村文吉が日本に来着する以前の二日横浜発イダホー丸にて至急米本国へ帰来すべし。後事は樫尾に委託すべし――との暗号電報が到着致しました。
 私はかような不思議な命令を受けました事は今までに一度もございませんでした。J・I・Cの団員で新たに日本に到着いたしました者は、是非とも一度妾の処に立寄りまして、色々と打ち合わせを致しますのが、ほとんど規則のようになっていたのでございます。でございますからして、況《ま》して西部首領とも申す程の有力者が日本に参りましたならば、誰を差しおいても私が先に面会致しまして、事務の報告を致さねばならぬ筈なのに、これはどうした間違いかと存じまして、判断に苦しみました揚句《あげく》、至急に電話をかけて樫尾を当教会の地下室に呼び寄せて相談致しましたところ、樫尾は暫く考えました後《のち》に、
「この命令に背かれましたならば貴女《あなた》の生命《いのち》が危ないでしょう。しかし……しかし」
 となおも二三度口籠もって躊躇致しましたが、やがて思い切った体《てい》で私の耳に口を寄せまして、あたりに人も居ないのに声をひそめまして、
「中村文吉氏の本名は志村浩太郎氏です。志村君は貴女が当教会《ここ》に居られる事を出発直前に耳にしておられる筈です。……左様《さよう》なら……」
 と云い棄て教会の外へ駈け出し、そのまま自動車に飛び乗って姿を消してしまいました。
 妾は余りの事に驚き呆れまして、暫くは教会の門前に立ちつくし、茫然とあとを見送っておりましたが、それにしてもこの十数年このかた打ち絶えておりました夫の消息を初めて聞き知りました妾の身として、たとい、J・I・Cの厳命でございましょうとも、何しにこのまま立ち去る事が出来ましょう。ましてその命令の意味も全く不明なのでございますから、妾は色々と考えをめぐらせました後《のち》、たといJ・I・Cの制裁を受くるとも構いませぬ覚悟で、そのまま日本に踏み止まり、夫の到着を待つことに決心致しましたが、そう致しておりますうちに去る六日の朝、帝国ホテルに到着、宿泊しておりました夫より、至急、本郷菊坂ホテルにて面会致したい旨を、電話にて申込んで参りましたから、取るものも取あえず駈け付けたのでございます。
 さてその時の夫の申条《もうしじょう》、または私の返答致しました模様などは皆、妾の愚痴がましく相成りますから、ここには略させて頂きます。けれどもその結果、前に申上げました或る事情のために私の不貞を疑っておりました夫は、初めてその非を悟りましたものか、一言も物を申し得ぬように相成りまして、そのまま味気なく別れる事になりましたが、それから二三日の間と申すもの夫は一度も帝国ホテルに姿を見せませず、どこへか姿を晦《くら》ましてしまいました。
 妾はそれと知りましてどう致したらよいものかと、毎日|時雨《しぐれ》勝ちの空を眺めて思案に暮れておりました。ほとんど食事も進みかねておりましたのでございますが、その折柄、去る九日の午前出勤中に外務省の機密局長M男爵閣下宛、配達致して参りました封書中に、夫の筆跡に相違ない無記名のもの一通を見付けましたので、思わず胸を轟《とどろ》かせました。そうしてその手紙をこっそりと自分の室に持ち帰りまして秘密に開封して読んでみますと、これこそ妾の夫志村がM男爵閣下に、J・I・Cの暗号基帳と、団員の名簿を手交致しますために、大森の山王茶寮で当夜の九時にお眼にかかりたい云々と認めました約束の文書でございまして見るも胸潰るる恐ろしい内容でございました。
 けれども妾はやっとの思いで心を落着けまして、その封書を元通りにして男爵閣下の机に返しました。そうしてその夜、大森の山王茶寮で、M男爵と面会して帰りかけました夫を途中で待ち受けまして、無理に当教会の地下室に伴いまして、J・I・Cに対する裏切りの行いを、きびしく責めたのでございますが、僅か二三日の間に見違える程やつれ果てました夫は、淋しく笑いますばかりで、私の申します事を少しも相手に致しませぬ。その上に兼ねてより酒類売買で蓄えておりました十五万円の財産全部を私に与えまして、永久に別れようではないかと申し出でました。
 妾はこの言葉を聞きますと同時に、夫が何かの原因で自殺の決心を致しておりますのを悟りましたので、あまりの悲しさに身も世もない気持になりまして、それならば一緒に外国に逃れてはどうかとすすめました。けれども夫は何か考えがありましたかして、何としても妾の申条を承知致しませず、ただ、自分一人だけ外国に逃げる事だけは辛うじて承知致しまして、その費用を除きましたあと全部を私に与えまして、妾の思い通りに使ってくれよと申しましたから、とりあえずその通りに致しました。
 けれども妾は、なおも夫が自殺の決心を持っているらしく思われてなりませぬので、恐ろしさと悲しさの遣る瀬ないままに、毎日のように夫のあとをつけまわしまして、度々面会致しては言葉を尽して諫《いさ》め訓《さと》しましたのでございますが、夫は只がぶがぶと酒を飲みますばかりで相手になりませず、妾の恐れと悲しみが弥増《つの》るばかりでございました折柄、昨十二日の午前中、小包郵便で前記の暗号入りの聖書が到着致しました。のみならず、間もなくその聖書を送りました本人の樫尾自身が妾の出勤先の外務省に飛んで参りまして、団員の一人である朝鮮人留学生、朴友石《ぼくゆうせき
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