》の密告によりまして、私に対する死刑の宣告が、只今米国本部より樫尾の手許まで到着致した旨を告げ知らせました。そうして尚その上に――鮮人朴友石は一種のコカイン中毒から来た殺人淫楽者で、色々な巧妙な手段を以て不思議の殺人を行い、今日迄度々警察を悩まして来た白徒《しれもの》で、殊に異性の私を殺し得る機会を得ようと兼ねてから付け狙っていた恐るべき変態恋愛の半狂人である。なれども樫尾自身は日本政府の御命令で、あくまでも、J・I・Cに踏み止まるべき重大なる任務を持っているために、朴の行動に反対する事が出来ない。却《かえ》ってその計画に賛成して、色々と指導を与えておいた位だから、私の運命は風前の燈《ともしび》――と申すような恐ろしい事実を申し聞かせ――後《のち》とも云わず即刻、海外に逃れるよう、準備を整えよ――と言葉をつくして諫めました。
 けれどもその時に妾はなおも夫の事を気づかいまして、躊躇致しましたところ、樫尾は遂に、もどかしさに堪えかねましたものか――左程に疑わるるならば、かく申す樫尾の身分と、今日までに探り得ましたJ・I・Cの真相を打ち明けましょう。序《ついで》に貴方の御子息の行方もお話しまして、妾が何故に斯様に一生懸命になって貴女《あなた》の御一身の事を心配致しますかという、その理由を説明しましょう――と申しまして、妾に病気欠勤をさせて自身に運転して来ました自動車に乗せ、多摩川附近までドライヴを致しました。
 この時に樫尾から承わりましたJ・I・Cの真相が、どのような恐ろしい、残忍非道なものでございましたかは貴方様のお察しに任せます。いずれに致しましても、前に申上げました表面的な主義主張とは全くうらはら[#「うらはら」に傍点]の実情でございまして、詳しくお話し申上げたいのは山々でございますが、あまり長く相成りますから併せて略させて頂きます。
 妾はその話の一々に就きまして思い当る事ばかりでございましたのみならず、永年尋ね求めておりました伜《せがれ》の嬢次が、紐育《ニューヨーク》の郵便局に奉職致しておりますことが最近J・I・Cに判明致しまして、人知れず人質同様の監視を受けております状態で、妾の素振によりましては、その生命を代償として、妾を威嚇致します準備が整っております旨を承わりました妾は、余りの恐ろしさに魂も身に添わず、病気のように相成りましてこの教会に引返《ひっかえ》し、樫尾に扶《たす》けられて逃亡の準備を致しました後《のち》、暫くは寝台の上に打ちたおれておりました程でございました。
 とは申せ、そう致しますうちに尚よく考えまわしてみますと、妾はまだJ・I・Cの内情を耳に致しましたばかりで、その恐ろしい仕事の実際を眼に見た訳ではございませぬ。嬢次の事とても同様でございまして、妾が親しく会ってみました上でなければ、真偽の程が確かとは申されないのでございます。ことに樫尾という人間がどうしてこのように妾の世話ばかり焼きましてJ・I・Cから裏切らせようと致しますのか、その理由が、まだハッキリと解った訳でもございませぬのに、みすみす眼の前の夫を見殺しに致して、妾一人何しに海外へ立ち去る事が出来ましょう。ですからその夜《よ》に入《い》りまして、介抱しておりました樫尾が立ち去るのを待ちかねまして、くるめく心を取り直しつつ、カフェー・ユートピアに夫を呼び出し、樫尾の物語を打ち明けまして、J・I・Cの真相を妾に洩らさなかった夫の無情を怨みました。
 ところが夫は別に驚く様子もなくこう答えました。
「お前にJ・I・Cの秘密を知らせなかったのは別に深い理由があったからでない。お前を裏切らせると嬢次の生命が危なくなるから、裏切るなら俺一人で裏切りたいと思っていたからなのだ。いずれにしてもお前の事は狭山という人によく頼んでおくから、安心して日本に居れ。J・I・Cが総がかりで来ても、又は樫尾の智恵を百倍にしても、あの人の一睨みには敵《かな》わない。お前は狭山さんを知っているだろう」
 と申しましたから、お顔だけは新聞紙上でよく存じている旨を答えましたところ、
「それならばいよいよ好都合だ。俺の事は決して心配しなくともよい。現に一昨日《おととい》の晩も、朝鮮人らしい奴が一人|尾行《つけ》て来たから、有楽町から高架線の横へ引っぱり込んで、汽車が大きな音を立てて来るのを待って振り返りざま、咽喉元を狙って一発放したら、ガードの下の空地に走り込んでぶち倒れた。しかし其奴《そいつ》は死ななかったらしく、今でも図々しく俺を追いまわしているが、そんな奴を恐れる俺じゃない。唯気にかかるのは非国民の名だ。だから、お前は伜の事は思い切っても、俺と一緒に非国民の汚名を受けないようにせよ。今夜でも宜しいから狭山さんの処へ行って事情を打明けて保護方をお願いせよ。狭山さんは剣橋《ケンブリッジ》大学の応用化学を出た人で、J・I・Cの団長W・ゴンクールの先輩に当る人だ。卒業生の名簿を御覧になればわかる。……この事が狭山さんに洩れた事がわかったらJ・I・Cで大警戒をするからそのつもりで極《ごく》秘密にして行け」
 と申しまして強いて妾を去らせました。
 しかし妾は尚も夫の身の上の程を心許なく存じましたので、昨夜《ゆうべ》遅く、共々に狭山様の処にお伺い致します決心で、人知れずステーション・ホテルに訊ねて参りまして、ボーイに二十円を与えて案内させ、夫の室《へや》に参り、内側から鍵をかけまして、気永く自殺を諫めにかかりましたけれども、夫はやはり相手になりませず、泥靴のまま寝台の上に横たわりまして、只管《ひたすら》に眠るばかりでございました。
 それで妾は、今朝《けさ》早く、今一度参ります心組で、手袋をはめながら窓を閉《とざ》し、電燈を消して廊下に出ましたところ、最前案内を頼みましたボーイが立ち聴き致しておりましたらしく、逃げて行くうしろ姿を認めましたから急に呼び止めまして、又も二十円を与えて口止めを致しましたが、そのまま今一度|扉《ドア》の前に引返《ひっかえ》し、室内の様子に耳を澄ましますと、夫はよく睡っておりますらしく、鼾《いびき》の声ばかり聞えましたから、すこし安心致しましてホテルを出ようと致しました時、お礼心でございましょう最前のボーイが送って出て参りましたから、忘れて手に持っておりました合鍵を渡しまして、今一度念を入れて口止めを致しました。そうして表に出ましてから十四号室の窓を仰ぎましたところ、夫は実は眠りを装うておりましたものらしく、妾が閉しておきました窓を押し上げ、ズボンにワイシャツ一つの姿で妾を見送っておりましたが、妾が振り返ると殆んど同時に身を退《ひ》いて闇の中に隠れてしまいました。
 今から思いますとこの時こそ夫の姿の今生《こんじょう》の見納めでございました。夫はJ・I・Cの団員と致しましても、又は日本民族の一人と致しましても、いずれにしても死なねばならぬ運命を思い知りまして、妾が立ち去るのを待ちかねて自殺致したものと存じます。
 妾はこの時、何となく後髪を引かれまして、胸が一ぱいになりました。けれどもいずれ明朝の事と存じまして、思い切って帰宅致しました。そうして今朝《こんちょう》七時半頃、右手のリウマチスが再発致しました旨の、偽りの欠勤届を認《したた》めておりました折柄、タキシー運転手姿の樫尾が、転がるように駈け込んで参りまして、夫志村の変死を告げ知らせました。そうして息せきあえぬ早口で次のような忠告を致しました。
「この事件には必ず狭山様の御出勤を見るであろう。そうとなれば貴方《あなた》がた御夫婦の今日までの売国的行動も水晶のように見透かされてしまうであろう。外務省の欠勤届なぞいう呑気《のんき》なものを書いている隙《すき》はないのだ。一刻も早く樫尾が指図する通りにして外国に逃れて時節を待つ考えを定《き》められよ。元来、J・I・Cの首領W・ゴンクール氏はずっと前から貴女《あなた》に懸想《けそう》していて、無理にも志村氏を殺そうとしているのだ。そうして人質に取った嬢次殿を枷《かせ》にして是非とも貴女を靡《なび》かせようと謀っている者である。だから貴女の生命《いのち》がなくなった暁《あかつき》には、必要もない人質の嬢次殿の運命が、どのような事になって行くかは、考える迄もないであろう。これまで打ち明けた上は何もかもお解りであろう。樫尾の言葉が真実である事を明かに覚られたであろう。とにも角にも一刻も早くこの教会から姿を消す事が肝要である。その方法というのは取り敢えず姿を改めて満洲王|張作霖《ちょうさくりん》の第七夫人と偽り、今夜一夜だけ帝国ホテルの客となって新聞記者を驚かす。それから明朝堂々と東京駅を出発し、下関から大連航路のメイルボートに乗り込み、大連から上海《シャンハイ》に逃れる方法がある。狭山氏の眼を逃るるにはこの方法より以外にない。早く早く」
 と妾を促しまして自動車に同乗し、銀座から神田に参り、衣類その他の装身具等を買い整え、再び銀座の美容院に参るべく、帝国ホテルの前にさしかかりましたところ、あの聖書を手にして調べつつ山下町の方から歩いておいでになりました狭山様のお姿を拝見しまして、聞きしにまさる、お手廻しの早さに驚きました妾は、自動車の中で気を喪《うしな》ってしまいました。
 妾はそれから約二十分ばかりして眼を開きますと、最寄《もよ》りの丸の内綜合病院に運び込まれて看護婦の手当を受けている事に気付きましたが、その中に汗まみれになって這入って参りました樫尾は、看護婦に用を云い付けて追い出しました隙に、妾の耳に口を寄せてこのような事を囁きました。
「あの聖書が狭山様の手に入ったために何もかもメチャメチャになってしまった。樫尾自身も内地に居られぬようになってしまったが、これはあの聖書を貴女の手から取り返しておかなかった私の失策だから仕方がない。しかし今の間に仲間に命じて逃亡の手当を残らずしておいたから安心なさい」
 と申しましてその計画を申聞かせましたから、今は一刻も猶予ならず、気絶後一時間ばかりして当教会に帰りまして、自動車を止めおいて支度を整えました。
 この自動車に妾が乗っております事は、他人ならば容易に判りますまいと存じますけれども、狭山様に限っては特別のお方と存じましたから、万一の用心に止めておいたのでございます。そうしてこの自動車が数寄屋橋に帰って、又ここまで参る最少の時間を八分間と定め、その僅かな時間を生命と致して逃亡させて頂く考えでございます。
 もはや右に申上げました事実で、妾が忌まわしき夫殺しの罪を犯したお疑いはお晴らし下すった事と存じます。
 申開き致したさの余り、あられもない失礼な事のみ長々と申上げまして、お手間を取らせました事は、何卒、幾重にもお許し下さいませ。
 この上は貴方様の御健康の程、幾久しくお祈り申上げるばかりでございます。かしこ

   午後一時五十二分
   志村のぶ子 拝[#地付き、地より5字アキ]

 読み終ってしまった志免と私は、殆んど同時に時計を出してみた。両方とも二時十六分である。
「あの運転手を逃がすな」
 と二人は矢張り同時に叫んだ。声に応じて三人の刑事は一斉に表に飛び出したが間に合わなかった。
 二人が叫んだその一刹那にスターターを踏んだ三五八八の幌自動車は、忽ち猛然たる音を立てて四谷見附の方向に消え去った。……それとばかりに志免と三人の刑事が、素早く熱海検事の乗って来た箱自動車に飛び込んで追跡したが、あとを見送った私は苦笑しいしい頭を左右に振った。
「駄目駄目。もう少し早く気が付いたら……」
「どうしてあの運転手が怪しい事が、おわかりになりましたか」
 と熱海検事も心持ち微笑を含んで尋ねた。
「初めから怪しい事がわかっていたのです。けれども途中で怪しくなくなったのです。ところが手紙を読んでしまうと同時に、又怪しくなって来たのです」
「……と仰言《おっしゃ》ると……」
 と流石《さすが》の熱海検事も私の言葉に興味を感じたらしく眼を光らした。私はポケットから暗号入りの聖書を引き出して、検事の前に差し出して見
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