リボンを手繰《たぐ》るのが一番早道と思いましたので、自動車で丸善から銀座を一通り調べましたが、その途中で一寸《ちょっと》電話をかけて、集まった報告を聞いて見ますと、女《ホシ》が市ケ谷の方向に消えたというのです。そこで今度は市ケ谷近くの四谷の通りから神楽坂《かぐらざか》、神田方面のタイプライター屋を当る考えで、公園前の通りを引返《ひっかえ》して来ますと、丁度今の公園前の交叉点で、この三五八八の幌とすれ違ったのです。運転手はやはりこの運転手でしたが、すれ違いざまに見ますと、乗っているのは黒い帽子を冠って藍色の洋服を着たすてきな美人なのです。私は夢中になって自転車で追っかけたのですが、やっとここ(参謀本部前)まで来た時にはもう、どこへ行ったか判らなくなってしまったのです。
私はそれから直ぐに数寄屋橋に引っ返して三五八八の車を当ってみましたら、その車はたしか一時間ばかり前に電話がかかって、麹町の方へ出て行った。しかしもう帰って来るだろう。電話の声は女で、丁寧な上品な口調だったという返事でしたので、私は直ぐにタクシーの事務所から、電話で刑事を一人呼んで張り込まして、三五八八が帰って来たら直ぐにわかるようにしておきました。運転手なんていうものは……」
自動車が突然にビックリするような警笛を鳴らした。と思う間もなく一気に濠端を突き抜けて、プロペラーのように幌を鳴らしながら三宅坂を駈け上った。後窓《アイホール》から振り返って見ると、熱海検事を乗せた自動車はまだ桜田門の前に来たばかりである。
「後の自動車《くるま》は大丈夫かね」
「はい行先を教えておきました。熱海検事はまだ犯人は決定している訳じゃない。しかしもうすこし調べておく必要があるから一緒に来ると云うんですが……」
と云いながら志免警部は鋭い眼付きで私を振り返った。しかし私は返事をしなかった。ただ顔を見覚えておくために、眼の前に坐っている運転手の顔を、反射鏡で気取《けど》られないように覗き込んだが、見れば見る程ガッシリした体格で、肩幅なぞは普通人の一倍半ぐらい有《あ》りそうに見える。しかもその顔は私の思い做《な》しか知らないが、最前帝国ホテルの前で私に「馬鹿野郎」を浴びせた獰猛な人相の男に違いないようで、その軍艦の舳《へさき》のようにニューと突き出ている顎が背後から見てもよくわかる。しかし服装は最前と丸で違って、黒い口覆いも何も掛けていず青い中折帽から新しい背広服に至るまで、最前とはまるっきり様子が変っているので、もしかしたら私の思い違いかも知れない。第一あの運転手ならば、私が警視庁の人間である事を気付くと同時に、多少に拘わらず吃驚《びっくり》した表情をあらわす筈である……なぞと考えながらつい鼻の先に山口勇作と貼り出して在る運転手の名刺を見ているうちに自動車は最早《もう》、半蔵門の曲り角に立っている人混《ひとごみ》を電光のようにすり抜けて、麹町の通りを一直線に、土手三番町へ曲り込んだと思うと、二葉女学校の裏手にある教会らしい小さな西洋館の前でピタリと止まった。止まると同時に志免警部は、私に一挺のブローニングを渡しながら真先《まっさき》に飛び降りて、空色のペンキで塗った門の扉を両手で押したが門は締りがしてなかったと見えてギイと左右に開いた。そこから真先に躍り込んだ志免警部に続いて三人の刑事が走り込んだ。
続いて私が降りようとすると、運転手は初めて気が付いたらしく、ギョロリと光る眼で私を見たが一寸躊躇しながら、丁寧に帽子を脱いで訊ねた。
「旦那……待っておりますでしょうか」
「うむ。そうしてくれ」
と云い棄てて私は門を這入った。
家は旧式赤|煉瓦《れんが》造りの天井の高い平屋建で、狭い門口《かどぐち》や縦長い窓口には蔦蔓《つたかずら》が一面にまつわり附いていた。その窓の上にある丸い息抜窓に色|硝子《ガラス》が嵌めてあるところを見ると昔は教会だったに違いない。私は永年東京に居るお蔭で、到る処の町々の眼に付く建物は大抵記憶しているつもりであるが、この家は今まで全く気が付かなかった。それくらい陰気な、眼に付きにくい建物であった。
私は故意《わざ》と中へ這入らずに、万一の用心のつもりで門の処に張り込んだまま待っていた。そのうちに頭の上の高い高いポプラの梢から黄色い枯れ葉が引っきりなしに落ちて来た。予審判事の乗っている自動車はまだ来ない。家の中にも何の音も聞えず、予期したような活劇も起りそうにない気配である。
私はあんまり様子が変だから表の扉《ドア》を開いて中に這入ってみた。見ると内部はがらんとした板張りで埃だらけの共同椅子が十四五ほど左右に並んでいる。正面には祭壇があって真鍮《しんちゅう》の蝋燭《ろうそく》立てが並んでいるが十字架はない。その代り左手の壁に聖母マリアの像と、それから右手に基督《キリスト》が十字架にかかっている図が架《か》けてある。……この絵を見ると私はやっと思い出した。それは何でも私が東京に来た当時の事で、驟雨《しゅうう》に会って駈け込んだ序《ついで》に、屋根の借り賃のつもりで一時間ばかり説教を聞いた事がある。その時に独逸《ドイツ》人らしい鷲鼻の篤実そうな男が片言まじりの日本語で説教をしていたが、その男が十年後の今日になって戦争で引き上げた後を調査したら、独探《どくたん》だった事が判明したので一時大騒ぎになって、その男の顔が大きな写真になって新聞に出た事がある。その時にもこの絵の事を思い出したが、私が関係した事件でなかったので忘れるともなく忘れていた。その跡を女が借りたものであろう。
そのうちに私は窓の上を這っている電燈と電話の線を発見したが、電燈の方は室《へや》の中央に旧式の花電燈があるから不思議はないとしても、こんなちっぽけな教会に電話は少々不似合である。……ハテ可怪《おか》しいな……と思いながら祭壇の横の扉《ドア》を開くと八畳ばかりの板張りになって、寝台が一つと、押入れと、台所と戸棚が附いている。寝台の上の寝具は洗い晒《ざら》した金巾《かなきん》と天竺木綿《てんじくもめん》で、戸棚の中には小桶とフライパン、その他の台所用具が二つ三つきちんと並んでいる。水棚の上も横の瓦斯《ガス》コンロも綺麗に掃除してある。その先は湯殿と、便所と物置で、隣境いの黒板塀との間に金盞花《きんせんか》が植えてある。
私は慌てて押入を開けてみた。鼠の糞《ふん》もない。その床板を全部|検《あらた》めてみたが一枚残らず釘付になっている。
私は裏口へ飛び出してみた。庭は四方行き詰まりで新しい箒目《ほうきめ》が並んで靴|痕《あと》も何もない。
「逃げたな」
という言葉が口を衝《つ》いて出た。そうしてそのまま表の説教場に引返《ひっかえ》すと、そのまん中の椅子の間に書記を連れた熱海検事が茫然と突立っていたが、私を見ると恭《うやうや》しく帽子を脱いだ。
「どうも遅くなりまして……自動車の力が弱くて五番町の坂を登り得ませんでしたので……犯人は挙がりましたか」
私は無言のまま頭を左右に振った。それを見ると熱海検事は同氏特有の憂鬱な眼付きをして、森閑《しんかん》とした室《へや》の中を見まわしてから又私の顔を見た。志免警部を入れた四名の警官が煙のように消えてしまったのである。
二三秒の間三人は、薄暗い教会堂のまん中で、色硝子の光線を浴びながら、青い顔を見合わせたまま立っていた。
するとこの時、どこからともなくガソリンの臭いがして来た。熱海氏も気が付いたと見えてキョロキョロとそこいらを見まわしていたが、やがて「アッ」と叫んで私の背後を見た。私も振り返って見たが「アッ」と驚いた。正面向って右側の壁にかかった基督殉難の図が扉《ドア》のようにギイと開いて、最新式の小型な白金カバー式ランプを提げた志免警部が飛び降りて来た。そのあとから三人の刑事が次々に飛び降りてしまうと、後は又ギイと閉まって旧《もと》の通りになった。……私は開いた口が閉《ふさ》がらなかった。こんな教会にこんな仕掛がしてあろうとは夢にも思わなかった。やはりこの家は独探《どくたん》の家だったのだな……と思った。
けれども志免警部と三人の刑事は私よりももっと失望したらしく、先程の元気はどこへやら、屠所《としょ》の羊ともいうべき姿で、私の前に来て思い思いにうなだれた。
「一体どうしたのだ」
と私は急に昂奮しながら問うた。
「はい迅《と》うに逃げていたのです。居たのなら逃げようがありません。一方口ですから」
「麹町署に頼まなかったのか……見張りを……」
「頼んだのです。ところがあの教会なら怪しい事はない。志村のぶ子という別嬪《べっぴん》の旧教信者が居て熱心に布教しているだけだと、下らないところで頑張るのです」
「僕の名前で命令したのか」
「貴方のお名前でも駄目です。古参の警視で威張っているんです」
私は泣きたいくらいカッとなってしまった。
「……馬鹿野郎……後で泣かしてくれる。……調べもしないで反抗しやがって……地下室か何かあるんだろうこの下に……」
「はい……電話線があるのに電話機がないので直ぐに秘密室があるなと感附きました。それでそこいら中をたたきまわりましたらあの絵の背後が壁でない事がわかりましたので、引っぱって見ますと直ぐ階段になって地下室へ降りて行けます。地下室には女がつい最前まで居て、何か片附けていたらしく、紙や何かを台所の真下にあるストーブで焼いてありまして何一つ残っておりません。只レミントンのタイプライターと電話器とこのガソリンランプが一台残っているばかりです」
私は地下室へ這入って見る気も出なかった。皆と一緒にぼんやりと立っていた。
するとこの時教会の入口の扉《ドア》をノックする音が聞えた。そうしてどこかで聞いたような錆《さ》びのある声が洩れ込んで来た。
「這入ってもよろしゅうございますか」
「よし這入れ」
と云うと声に応じて扉《ドア》が開いた。それは最前の運転手で、内部の物々しい、静かな光景を見てちょっと臆したようであったが、直ぐにつかつかと近寄って来て、ひょっくりとお辞儀をしながら一通の手紙を差出した。
「こんなものが門の中にありました」
「門の中のどこに!」
と私は受取りながら訊ねた。
「……扉《ドア》の内側に挟んでありましたのが、風で閉まる拍子に私の足下へ落ちましたので、多分旦那方の中《うち》においでになるんだろうと思いましたから……」
「よしよし。わかった。貴様は表へ出て待ってろ」
「いや。一寸待て」
と志免警部が横から呼び止めた。運転手はぎくりとしたようにふり返った。
「へ……へい……」
「最前貴様がここへ来た時には、日本人や外国人取り交《ま》ぜて五六名の者がたしかに居たんだな」
「へい。それはもう間違いございません。私がこの眼で見たので……」
「よし……行け……」
と志免警部は噛んで吐き出すように云った。そうして私が封を切って読みかけている手紙を熱海検事と二人で覗き込んだ。
その手紙は記念のために、まだここに持っているが、白い西洋封筒の上に鉛筆の走り書きで、
警視庁第一捜索課長
狭山九郎太様 御許に[#「御許に」は小文字]
志村のぶ子 拝[#地付き、地より5字アキ]
と認《したた》めてある。中の手紙はタイプライター用紙六枚に行を詰めて叩いた英文で、よほど急いだものらしく、誤植や誤字がちょいちょい混っている。飜訳すると原文よりは少々長くなるようであるが、あらかたこんな意味である。
取り急ぎますままに乱文の程お許し下さいませ。
妾《わたし》は只今、貴方様の神速な御探索を受けております事を承知致しまして、とても助かりませぬ事と覚悟致してはおりますが、万に一つにも、お眼こぼしが叶いました節は、生きて再びお眼もじ致します時機がないように存じ上げますから、勝手ながら、妾の一生のお願い事をお訴え申上げたく、不躾《ぶしつけ》ながら手慣れておりますタイプライターの英文にて御意を得させて頂きます。
その中《うち》にも何より先立ってお許しの程をお願い申上げとう
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