ま》ふべし。
 ――心《こゝろ》より兄弟《きやうだい》を赦《ゆる》さずは我《わ》が天《てん》の父《ちゝ》も亦《また》汝等《なんぢら》にこの如《ごと》くし給《たま》ふべし。
 ――よばるゝものは多《おほ》しと雖《いへども》、選《えら》ばるゝ者《もの》は少《すく》なし。
 ――娼妓《あそびめ》は爾等《なんぢら》より先《さき》に神《かみ》の国《くに》に入《い》るべし。
 ――爾等《なんぢら》聖書《せいしよ》をも神《かみ》の力《ちから》をも知《し》らざるによつて謬《あやま》れり。
 ――高《たか》うするものは卑《いやし》くせられ自己《じこ》を卑《いやし》くするものは高《たか》くせられん。
 ――野《の》にありといふ者《もの》あるも出《い》づる勿《なか》れ。
 ここまで読んで来ると又気が付いた。……なあーんだ……と口走りながら苦笑した。私は何か余程六ケ敷い暗号ではないかと思って、一生懸命に注意しながら一句一句を読んでいたのであったが、よく見ると何でもない。西洋の若い男女がよく媾曳《あいびき》の約束なんかに使う極めて幼稚な種類の暗号で、何も聖書に限った事はない。小説にでも教科書にでも何にでも使える極めて手っ取り早いものなのだ。すなわち赤い線を引いた各行の頭の文字だけを拾い読みすればいいので、一番最初の数文字が、意味をなさない人の名前になっているためにチョット気が付かなかったのだ。
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しむら、のぶこ[#「しむら、のぶこ」に傍線]よ。貴方の夫は裏切者です。彼は吾々《われ/\》ぜい、あい、しいの金七万八千|弗《ドル》を奪つて日本へ逃げて来てぜい、あい、しいの暗号を日本の外務省に送りました。彼はぜ、あ、し[#「ぜ、あ、し」に傍線]から死の宣言を受けました。それと一緒に私は、貴女《あなた》を見張るやうに命令されましたところ貴方は窃《ひそか》に夫を探し出してその金を奪つて、どこかに隠れる支度をして居《ゐ》る事を留学生のをりん、ゆう、せき[#「りん、ゆう、せき」に傍線]がみつけましたから私はぜ、あ、し[#「ぜ、あ、し」に傍線]本部へ知らせました。しかし貴女《あなた》の死の宣告はまだ来ませぬ。貴方が美しいからです。お二人の事を知つてゐるのはりん[#「りん」に傍線]と私だけです。りん[#「りん」に傍線]はお二人を殺すと云つて居《お》ります。あなた夫婦を助ける者は私だけです。その理由《わけ》はお眼にかゝつて話します。色恋でも金のためでもありませぬ。日本のためです。信じて下さい。十四日午後五時に半蔵門停留場にお出でなさい。貴女《あなた》はいつもの黒い服。私は黄色い鳥打帽子。運転服。かしを。
[#ここで字下げ終わり]
 赤い線は一頁に二つか一つ半位の割合で附録詩篇の四十六篇の標題、
 ――女《をんな》の音《こゑ》の調《しら》べにしたがひて……。
 という処まで行って、おしまいになっている。
 いつの間にか起き上って、眼を皿のようにしていた私は、聖書をピッタリと閉じて老眼鏡を外すと黒い表紙の上をポンと叩いた。そうして思わず、
「成る程。わからない筈だ」
 と叫びながら音楽堂の上の青い空を仰いだ。
 今まで私の眼の前を遮っていた疑問の黒幕がタッタ今切って落されたのだ。そうしてその奥に更に大きな、殆んど際涯《はてし》もないと思われる巨大な、素晴らしい黒幕が現出したのだ。
 元来米国と欧洲の瑞西《スイス》は、世界各国の人種が出入りするために、各種の秘密結社の策源地のようになっている。その中でもJ・I・Cというのはどんな種類の秘密結社か知らないが、この文の模様で見ると米国に本部を置いているらしく、裏切者を片《かた》ッ端《ぱし》から死刑に処するのを見ても、その組織の厳重さと、仕事の大きさが想像される。しかも迂濶な話ではあるが、そんな強烈な秘密結社の支部が日本に設置されている事は、今日が今日まで私も知らなかったので、恐らく外務省なぞも同様であろう。況んや、その支部にしむらのぶこ[#「しむらのぶこ」に傍線]と呼ばれる怪美人やりん、ゆう、せき[#「りん、ゆう、せき」に傍線]と呼ばれる留学生や、かしを[#「かしを」に傍線]と名乗るタクシー運転手らしい男なぞが属していて、何等か秘密の活躍をしていた。そうして裏切者の岩形圭吾を問題にして、何かしらごたごた遣っていた……なぞいう事をどうして、何人《なんぴと》が察し得よう。
 ……しかし最早《もはや》逃がさぬぞ。J・I・Cの秘密をドン底まで叩き上げないではおかないぞ。……岩形氏を殺したのはJ・I・Cの黒幕の中から現われた手ではなかったか。そうして彼女は、その黒幕の蔭から現われ出て、岩形氏の急を救おうとしたものではなかったか。
 ……果然……果然……矛盾の本尊であった彼女は、今や、暗中一点の光明となった。そうして私が最初に予想した通り、私がこの女に会いさえすれば万事が氷解する段取りになって来たではないか。しかもその勝敗の決する時間は今日の午後五時……時計を出してみると、今から約三時間半の余裕がある。……彼女が紅海丸に乗らなかったのも、多分この会見に心を惹かれたためであろう。
 こう考えて来るうちに私は思わず武者振いをした。……この事件はちっぽけな殺人事件として片付ける訳に行かなくなった。うっかりすると日本民族の存立にかかわるような大事件を手繰《たぐ》り出すかも知れない。畜生。どっちにしても相手は大きいぞ……と逸《はや》る心を押し鎮めるべく敷島を一本|啣《くわ》えながら公園の中にある自働電話に駈け込んで、警視庁に電話をかけて赤原警部を呼び出した。これは新聞記者を避けるために私が用いる常套手段で、このために私は殆んど毎日五銭以上の損害を新聞記者から受けていると云っていい。
 出て来た赤原巡査部長に何か報告はないかと尋ねると、直ぐに答えた。
「志免警部は十一時半までに横浜から何の報告もありませんでしたから、御命令の通りに各港へ電報と電話と両方で、女の乗客を調べるように通達致しました。それからタイプライターと法被《はっぴ》に関する報告が書き取ってありますが……」
「読んでみたまえ」
「……一つ……芝区に向いたる轟刑事第一報告(午後十二時五分着)新橋二五〇九と染め抜きたる新しき法被を日蔭町の古着店にて発見せり。売却人は若き車夫|体《てい》の男にて『この法被はいらなくなったから売る』といいたり。古着店主辻孝平は該《がい》車夫が、番号の相違せる古き法被を下に着たるを怪しみ理由《わけ》を問いたるに『なに。この法被は貰ったんだけれど番号を改《か》えるのが面倒だから売る』と云いたるを以て三十銭に買い取りし旨を答えたり。時刻は昨夜九時頃にして、面体、及び、下に着せる古き法被の番号は明瞭に記憶せざれどたしか芝……〇二なりしと云えり。但し、その時俥は引きおらざりしとの事なり。小官はこの旨を新橋署にて調査中なりし金丸刑事に報告し、法被は店主に保管を命じ借着屋の調査に向いたり。
 一つ……金丸刑事第一報告(十二時二十五分着)新橋二五〇九の俥は実は芝一四〇二号なり。芝神明前俥宿|手鳥《てどり》浅吉の所有にして挽子《ひきこ》は市田勘次というものなり。十二日午後二時頃、同人は客を送りて麹《こうじ》町区|隼《はやぶさ》町まで行きたる帰途、赤坂見附の上に差しかかりたるに、三十前後の盛装したる女に呼び止められ、華族女学校横まで連れ行かれ、金五円を貰い、新しき法被を着せられ、山下町東洋銀行に到り、白き書類様の包みを受取り、市ケ谷見附まで引き行きて件《くだん》の客を下し、法被を脱ぎて帰るさ同見附駐在所にて呼び止められ『何故《なぜ》に毛布を垂らして俥の番号を隠しいるや』と叱責され謝罪して帰りたる由。因みに、その時同人は新しき革足袋《かわたび》を穿き、古きメルトン製の釜形帽を冠りおりたる由……おわり……」
「それだけかね」
「それだけです。あ……丁度志免警部が帰って来ました」
「電話に出してくれ給え」
「アアモシモシモシモシ」
 疑いもない志免警部の声であるが、どうしたものかすっかり涸《か》れてしまっている。
「モシモシ。課長殿ですか。課長殿ですか」
「どうしたんだ君は……僕だよ……狭山だよ」
「女の手がかりが付きました」
 これだけ云って志免警部は息を継いだ。
「どうして……どこで……」
 と私は態《わざ》と落着いて云った。志免警部は水か何か飲んでいるらしく頻《しき》りに咽《むせ》る音が聞えたがその間私は黙って待っていた。
「モシモシ。モシモシ。時間ですよ」
 と交換手の声が聞えて来た。私は又五銭白銅を穴の中へ入れた。その音の消えない中《うち》に志免警部は口を利き出したがもうぐっと落ち着いている。
「……や……失礼しました。あまり急いだものですから息が切れて」
「どうしたというのだ」
「タクシーで逃げるのを自転車で追《おっ》かけたのです」
「逃がしたのか」
「逃がしましたがその自動車の運転手が帰って来たのを押えて何もかも聞きました」
「御苦労御苦労……手配はしてあるね……」
「ハイ。それから熱海検事が今総監室に来ておられます。一緒に来られるそうです」
「検事なんか何になるものか。自動車はいるね」
「ハイ。皆出切っておりますから呼んでいるところです。……実は女《ほし》の隠家《あな》を包囲したいと思うんですが、十四五名出してはいけませんか」
「いけない。眼に立ってはいけない。国際問題になる虞《おそ》れがある」
「今どこにお出《いで》ですか」
「日比谷だ」
「それじゃお迎えにやります」
「来なくていい。そこまでなら電車の方が早い」
 日比谷公園の正門を駈け出すと、全速力の電車に飛び乗った私は五分も経たないうちに警視庁《やくしょ》の前で飛降りた。その姿を見ると志免警部は表の階段を降りて迎えに来たが、そのあとから選《よ》りに選《よ》った強力《ごうりき》犯専門ともいうべき屈強の刑事が三名と、その上に熱海検事、古木書記までも出かける準備をして降りて来た。ちょっと眼に立たないが、近来にない目の積んだ顔揃いで、早くも事件の容易ならぬ内容を察した志免警部の機敏さがわかる。おまけにどこをどう胡麻化《ごまか》したか新聞記者が一人も居ない。これだけの顔が出かけるとなれば、すぐに新聞記者の包囲攻撃を受けなければならないのだが……と……そう気が付いてキョロキョロしている私の腕を捉えて志免警部はぐんぐん数寄屋橋の方へ引っぱって行きながら、耳へ口を寄せるようにして囁《ささや》いた。
「女を隠れ家に送り込んだ、三五八八の自動車が帰って来ましたので……」
「えっ。三五八八」
「そうです。数寄屋橋タクシーです」
「……それじゃ……先刻《さっき》のがそうだったんだ」
「発見していられたんですか最早《もう》……」
「うん。そうでもないが……相手は大勢かね」
「はい。運転手の話によると女の外に、凄い顔付《つらつき》をした支那人や朝鮮人を合わせて四五名居ると云うのです」
「新聞記者が一人も居ないのはどうしたんだ」
「貴方が日比谷公園で迎えの自動車を待ってられると聞いて皆飛んで行ったんです」
「事件の内容は知るまいな」
 と云いも了《おわ》らぬうちに山勘横町《やまかんよこちょう》の角から一台の速力の早いらしい幌《ほろ》自動車が出て来て私達の前でグーッと止まった。先刻《さっき》の軍艦色のパッカードである。続いて来た一台の箱自動車は志免刑事の相図を受けて警視庁の入口の方に行った。
 私達は猶予なく自動車に飛び乗った。あとから追っかけて来た三人の刑事も転がり込んだ。
 志免警部は運転手に命じた。
「お前が今行った家《うち》へ……一ぱいに出して……構わないから……」
 運転手はハンドルの上に乗りかかるようにうなずいたと思うと、忽《たちま》ち猛然と走り出して電車線路を宙に躍り越えた。その瞬間に私は思った。これ位軽快な車はタクシーの中《うち》にも余りあるまい。今たしかに三十五|哩《マイル》は出ている……と……その中《うち》に志免刑事が口を利き出した。
「いや。非道《ひど》い眼に会ったんです。私はタイプライターの
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