にも名前《イニシャル》が付いていない事と、手紙の類を一通も出さず、ホテルの名前入りの状袋《じょうぶくろ》や紙も無論使用しなかった事と、銀行の支配人に出鱈目《でたらめ》の住所や名前を云った事と、訪問客も手紙も絶無であった事などによって明かに推測される。事によるとこの紳士は一週間前に着のみ着のままで日本に逃げて来て、新しく買ったトランクやスートケースを提げてこのホテルへ逃げ込んで来たものではないか……そうして絶えず一身の危険を脅かされていたものではないかと考え得べき理由がある。
……ところがその中にたった一人、この紳士の隠れ家を知っている者が居た。それがこの紫のハンカチを持った女である。この女がこの紳士を知っているとすれば多分外国……米国で知り合いになったものと考えられるが……。
……その女は少くとも三四日以前にこの紳士が日本に来ている事を発見して遂にその住所を突き止めた。そうしてこの紳士を脅迫したものであろう……多額の金を受取った。すなわちこの紳士には容易ならぬ旧悪があって、女がそれを知っていたばかりでなく、その旧悪に附け込んで、その所持金を奪って殺して終《しま》う計画を持っていた…
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