思うんですが……他の処にはないようですから……」
 私はもう一度深くうなずいた。
 すると殆んど同時に入口の扉《ドア》が開《あ》いて金丸刑事が帰って来たが、汗を拭き拭き私に一枚の名刺を渡した。それは女持ちの小型なアイボリー紙で上等のインキで小さく田中春と印刷してある。それを受け取るとすぐに鼻に当ててみたが思わずニッコリ笑った。すると飯村は、それを冗談とでも思ったのか一緒になって笑い出した。
「いや銀行でも弱ったんです。私が女の事を貴下《あなた》にお話しているうちに、若い行員どもが、引っ切りなしにゲラゲラ笑うんで困りました」
 私は事件の緒《いとぐち》がいよいよハッキリと付いて来たので急に気が浮き浮きして来た。
「ああ。いい臭いだ。おれが犬なら直ぐに女を探し出すんだがなあ。……こんな時にスコットランドヤードの探偵犬《ボッブ》が居るといいんだがなあ」
 この時に杉川医師も階下《した》から上って来た。
「ボーイがやっと意識を回復したようですが。……どうもヒステリーの被告みたいに、神経性の熱を四十度も出しやがって譫言《うわごと》ばかり……」
「どんな譫言を……」
 と私は急に真面目になって問う
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