ーン氏が感付かずにいるのだ。氏の困った表情と、額の汗が何よりも雄弁に、そうした事実を証拠立てている。そうしてその事実が間違いないという事を、もう一度私の家の中で主人らしく取り澄ましている氏名不詳の女の態度が、しとやかに裏書きしているのだ。私を欺くための芝居では断じてない。
 しかも、そうした事実は更に、紫のハンカチと、J・I・Cとが全然無関係である。否、むしろ讐敵《かたき》同士かも知れない……という驚愕すべき事実を、いとも儼然《げんぜん》と証拠立てている事になるではないか。私の第六感によって推理した事件の真相の中心となるべき事実が、全然一場の無意味な幻覚に過ぎなかった事を、余りにも如実に裏書きしている事になるではないか。
 私はそう気付くと同時に、私の頭の中に築き上げられた推理の空中楼閣が、早くも根柢から土崩瓦解《どほうがかい》し初めたように感じた。折角《せっかく》ここまで押し詰めて来た張り合いが、一時にパンクしてしまって、又もふらふらと前にノメリ倒れそうな気がした。それを窓の框《かまち》に手をかけてやっと我慢しつつ、もう一度|背後《うしろ》の闇を見まわした。誰か見ているような気がした
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