耳を澄ましますと、夫はよく睡っておりますらしく、鼾《いびき》の声ばかり聞えましたから、すこし安心致しましてホテルを出ようと致しました時、お礼心でございましょう最前のボーイが送って出て参りましたから、忘れて手に持っておりました合鍵を渡しまして、今一度念を入れて口止めを致しました。そうして表に出ましてから十四号室の窓を仰ぎましたところ、夫は実は眠りを装うておりましたものらしく、妾が閉しておきました窓を押し上げ、ズボンにワイシャツ一つの姿で妾を見送っておりましたが、妾が振り返ると殆んど同時に身を退《ひ》いて闇の中に隠れてしまいました。
今から思いますとこの時こそ夫の姿の今生《こんじょう》の見納めでございました。夫はJ・I・Cの団員と致しましても、又は日本民族の一人と致しましても、いずれにしても死なねばならぬ運命を思い知りまして、妾が立ち去るのを待ちかねて自殺致したものと存じます。
妾はこの時、何となく後髪を引かれまして、胸が一ぱいになりました。けれどもいずれ明朝の事と存じまして、思い切って帰宅致しました。そうして今朝《こんちょう》七時半頃、右手のリウマチスが再発致しました旨の、偽りの欠勤
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