ひそひそ話をしたり笑ったりしていた。この家《うち》の料理番《コック》で好色漢《すけべえ》の支那人が、別嬪と聞いてわざわざ覗きに上って来た位、美しいのであった。
 すると、それから十四五分ばかりして一人の色の黒い、大きな男が、濃い茶色の外套に緑色の帽子を冠って、両手をポケットに突込んだまま、跫音《あしおと》高く階段を上って来た。この男は一週間ばかり前からちょいちょい此店《ここ》へ来て飯を喰ったり酒を飲んだりする男で、お金もたんまり持っているらしく、此店《ここ》に来る客人の中《うち》では上々の部であった。その男は女を見ると横柄にうなずいて向側の椅子に腰を卸《おろ》して大きな声でボーイに命じた。
「豆スープとハムエッグスと黒|麺麭《パン》と、珈琲にウイスキーを入れて持って来い」
 女は何も喰べずに、男の様子をまじまじと見ていた。それから、やがて小さな書物を男の眼の前に差し付けて、顔をずっと近付けながら、何かひそひそと話していたようであったが、紫色のハンカチを時々眼に当てて泣いているようにも見えた。これに対して男も時々眼をぎょろ付かせて女を睨みながら、暗い顔をして耳を傾けていた。首肯《うなず》
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