行くうちに、忘れようとして忘れられぬヘリオトロープの芳香が、微かにその間から湧き出して来た。
 その瞬間に私ははっと職業意識に帰った。一しきり胸を躍らした。あたりを見まわした。そうしてその聖書を手早く外套のポケットに辷り込まして、何喰わぬ顔で椅子に帰っているところへ、やっとボーイが珈琲を持って上って来た。
 そのボーイに五十銭札を握らして燐寸《マッチ》を貰って敷島に火を点《つ》けながら、何でもないからかい半分の調子で色々と質問をしてみると、案外記憶のいい奴で、殊に岩形氏には多分のチップを貰っているらしく、その一挙一動にまでも眼を付けて記憶していたのは、時にとっての拾い物であった。その話を綜合するとかようである。
 たしか昨夜《ゆうべ》の九時前後と思われる頃であった。黒い大きな帽子を冠って、濃い藍色の洋服を着た日本婦人で、二十五から三十位の間に見える素敵な別嬪《べっぴん》がやって来て、現在私が腰かけているこの卓子《テーブル》を借り切って、小さな本をひねくりながら折々窓の外を見て、人を待っている風情であった。その時はちょうど客足が途絶えていたが、それでも二三組客が居て、皆その別嬪の方を見て
前へ 次へ
全471ページ中121ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング