ーイを呼んだ。けれども返事すら聞えなかった。この時にやっと珈琲を挽《ひ》き出した電気モーターの音に紛れたのであろう。
 煙草を吸う人は皆経験しているであろうがこんな時には燐寸《マッチ》一本のために、大の男が餓鬼道に墜ちるものである。私はもう本職の仕事を忘れてしまった真剣さで、そこいら中をぐるぐる探しまわっていると、ふと隣の室《へや》のマントルピースの上に、小さな黒い箱のようなものが載せてあるのを見付けた。
 私は占めたと思った。これこそ燐寸《マッチ》……と思って近付いてみると豈計《あにはか》らんや、それは燐寸《マッチ》ではなくて黒い表紙の付いた小型の聖書であった。……こんな処にこんな物を……と私はその時にちょっと首をひねったが、大方これは客人が落して行ったものであろう……それをボーイが見付け出してマントルピースの上に載せておいたものであろうと思い思い、何の気もなく開いて見ると、それは最新刊の和訳の聖書で、青縁《あおぶち》を取った新しい頁に、顕微鏡式の文字がびっしりと詰まっている。……これは余っ程いい眼を持った人間でなければ読めないな……と感心しながら、なおも先の方の頁をぱらぱらと繰って
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