ったが、ハンカチで拭く程珈琲を引っくり返した痕跡《あと》はどこにも見当らなかった。大方あとで取り換えたものであろう。念のために机掛けをまくって、机の表面まで一々検めて行ったが、これも直ぐに拭いたと見えて何の痕跡《あと》も発見されなかった。あれ程の毒を拭かずにおけば、今朝迄にはワニスが変色するか、剥げるかしていなければならぬ筈である。
 私はちょっと失望した。
 私はこうして昨夜《ゆうべ》岩形氏と洋装の女が対座していた卓子《テーブル》を見付け出すつもりであった。そうして、ボーイが持って来て岩形氏のすぐ横に置いたに違いないであろうウイスキー入りの珈琲に、洋装の女がどんな機会を狙って、どんな方法で毒薬を入れたか……それを又岩形氏が、どうして感付いて引っくり返したか……という事実がどうかして探り出せはしまいか……それを中心にして二人の態度を細かく探ったら事件の経緯《いきさつ》がもっとハッキリなりはしまいかと期待して来たのであった。
 云う迄もなく私は、岩形氏を、尋常一様の富豪とは夢にも思っていなかった。毒と覚《さと》って珈琲を引っくり返したところなぞを見ると案外腕の冴《さ》えた悪党で、この事件
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