近眼鏡をかけ直しながら、おずおずと這入って来たが、流石《さすが》に云い知れぬ喜びと、初めて私の前に出て来る気味悪さとに包まれているらしく、心持ち顔色を青くしながら、縮れ毛を染めた束髪の頭を下げた。志免警視はにこにこして紹介した。
「……課長殿(志免警視は自分が課長の癖にいつまでも私を課長殿と呼んだ)……志村未亡人です」
 二年|前《ぜん》の記憶をまざまざと喚び起した私は、顔の皮膚が錻力《ブリキ》のように剛《こわ》ばるのを感じた。お辞儀を返したかどうか記憶しないまま突立っていた。
「いや……面喰いましたよ。ははは。何しろ事が急だったもんですからね。課長殿と打合わせる隙《すき》がなかったんです。……ちょうど三時頃だったと思いますが、藤波君から電話がかかって、嬢次君から志村浩太郎君の遺言書類を受け取ったという概略の報告をして来たのです。それを聞くととても重大問題で、うっかりすると親玉を取り逃がしそうな形勢ですから、総監と打ち合わせをしているところへ、藤波君が飛び込んで来て、総監を引っぱり出して、外務省から内務省、検事局と稲妻みたいに活躍し初めたのです。……一方に私は私で一生懸命に貴方を探したんですけど、その時はどうしても見当らなかったんです。貴方がおいでになれば何でもなく片付いたんでしょうけれども……お蔭ですっかり蜂の巣を突っついたようになっちゃって非道《ひど》い眼に会いましたよ。ははは。しかし課長殿もこれで清々されたでしょう。はははははは」
 警官|気質《かたぎ》で無遠慮な志免刑事は、紹介とごちゃ交ぜに弁解しながら顔を撫でた。その中を志村未亡人は進み出て、顔も上げ得ないまま、切れ切れに挨拶をした。
「……お顔を合わせます面目もございませぬ。……何から何まで御恩になりまして……お蔭様で、無事に……伜の願いまで叶いまして……もう……思い残しますことは……」
 と云ううちに胸が一ぱいになったのであろう。ハンカチを顔に当てて肩を戦《おのの》かした。すると、それを……見っともない。お止しなさい……というかのように嬢次少年が、丸|卓子《テーブル》を抱え起したり、毀《こわ》れ物を片付けたり、奥の室《へや》から椅子を持って来たりし初めた。
 その時に門の中に敷き詰めた房州石の上をどっしどっしと歩いて来る靴の音と、ちょこちょこ走りに連れ立って来る小さな足音が、入れ交《まじ》って聞えて来た。その足音を聞くと志免警視が急いで玄関に出迎えて、何か二言三言報告じみた言葉を交換しながら請じ入れたが、這入って来た人物を見ると、頭を繃帯で巻き立ててはいるが、さしもに豊富であった黒髯を、見事に剃り落して、軍艦の舳《へさき》のような顎をニューと突き出したハドルスキー……紛う方ない樫尾初蔵氏の堂々たる陸軍大尉の制服姿で、胸に帯びた略綬の中には功四級のそれさえ見える。それからもう一人は白狐の外套に、黒|貂《てん》の露西亜《ロシア》帽を耳深に冠った、花恥かしいカルロ・ナイン殿下であったが、急いで歩かれたせいか真赤に上気しておられるのが、又なく美しく、あどけなく見えた。志免警視と嬢次|母子《おやこ》は、それとなく壁際に片寄ってゴンクール氏の死骸を隠すように立ち並んだ。
「いや。松平閣下の自動車は大型で淀橋からこっちへは這入らないのでね。うっかりして殿下をお歩かせしてしまいました」
 そう云ううちに樫尾大尉は、死骸の方へは眼もくれずにつかつかと這入って来て、私の前で直立不動の姿勢を執ると、恭《うやうや》しく名刺を差出した。そうして心持ち上半身を傾けたまま、如何にも軍人らしい太い声で挨拶をした。
「私は先年御高配を蒙りました樫尾初蔵でございます。その節は失礼ばかり致しましたにも拘らず、御容赦を得ました段、篤く御礼を申上げます。……又、この度は一方ならぬ御配慮を煩わしまして……」
 私は何かなしにほっとした気持になりつつ礼を返した。二人は何等隔意のない態度で向い合ったまま、互の顔を正視し合った。
「実は一昨年、志村未亡人と御一緒に日本を出発致します際の御相談では、今度日本に参ります際には、何もかも直接貴方に御相談して致したい考えでおりましたところ、貴下の御辞職の御事情を蔭ながら拝承致しましたので、それではこのような危険な仕事をお願い致す訳には行かぬ。科学の研究以外にお楽しみのない貴方のお身体《からだ》に、万一の事があってはならぬ。失礼ではありますが狭山様は成るべく危険な区域にお近づきにならぬようにしてあげねば……という志村未亡人の御注意がありましたのでその方の手配を嬢次君とお母様の思い通りにして頂く事にして計画を立てました。そうしてJ・I・Cの日本到着後の活躍を見定めて、動かぬ証拠を押えてから、警視庁の御助勢を得まして一挙に撃滅する考えでおりましたところが、嬢次君が思いもかけませ
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