何とも説明が出来ない。嬉しいのか、恐ろしいのか……おそらくその両方が一緒になった気持ちであったろう。私が今まで当の敵として睨んで来た美少女……憎んでも飽き足らぬ奴と思って生命《いのち》がけで追い詰めて来た疑問の女……三人の生命《いのち》を手を下さずして奪ったとも見られる恐るべき怪美人……それが最早《もう》死んだものと思って安心して這入って来た私は、その女がまだ死んでいないのを見て、安心以上の安心ともいうべき一種の喜びを感ずると同時に……扨《さ》ては……扨《さ》ては……と胸の躍るような緊張に全身を引き締められるのを感じたのであった。
その時に女はうっすりと眼を見開いて私の足下を見たようであったが、その眼をそろそろと上げて私の顔を一眼見ると、忽ちその眼を大きく見開いた。
「……あっ……」
と叫んで椅子から跳ね起きて、颯《さっ》と頬を染めながら私を突き除《の》けて逃げ出そうとした。その右手を私は無手《むず》と捕えた。
女は袖で顔を蔽うたまま、二三度振り切って逃げよう逃げようと藻掻いたが無駄であった。私の右手の指は、鋼鉄の輪のように女の右手を締め付けているために、化粧をした手首から爪の先が、見る見る紫色になってしまった。
私は励声《れいせい》一番……、
「何者だ。名を云え」
と大喝した。
この時の女の驚き方は又意外であった。……はっ……と立ち竦《すく》んだまま眼をまん丸にして、私の顔を穴のあく程見たが、返事が咽喉《のど》に詰まって出ないらしく、只呆れに呆れている体《てい》であった。
私はこの時初めて女の顔を真正面から十分に見る事が出来た。百燭の光明に真向きに照らし出された顔は、よく見れば見る程、又とない美しさであった。ことにその稍《やや》釣り気味になった眼元の清《すず》しさ……正に日本少女の生《き》ッ粋《すい》のきりりとした精神美を遺憾なく発揮した美しさであった。私は一瞬間恍惚とならざるを得なかった。けれども直ぐに又気を取り直して、今度は確かな落ち着いた声で云い聞かせた。
「貴女《あなた》のなすった事は初めから残らず見ておりました。私はこの家の主人狭山九郎太です。……お名前を仰言《おっしゃ》い」
女は観念したようにうなだれた。私は手を離してやった。
女は痺れ痛む右手を抱えて撫《な》で擦《さす》りながら、暫くの間無言でいたが、忽ち両手をうしろに廻して、真白な頸筋の処を揺り動かした。それから髪毛の中に指を入れて二三箇所いじり廻した。そうしてその長い鬢《びん》の生え際を引き剥がすとそのまま、丸|卓子《テーブル》の上にうつむいて両手をかけて仮髪《かつら》を脱いだが、その下の護謨《ごむ》製の肉色をした鬘下《かつらした》も手早く一緒に引き剥いで、机の上に置いた。
その下の真物《ほんとう》の髪毛は青い程黒く波打ったまま撫で付けにしてあったが、同時に鬘下で釣り上げられていた眉、眼、頬はふっくりと丸くなって、無邪気な、可愛らしい横顔に変ってしまった。最後に女は巧みに貼り付けてあった眉毛を引き剥ぐと、顔を上げて真白に化粧を凝らした少年の顔を百燭の光りに曝《さら》した。
私は眼を剥いてその顔を睨み付けた。
魂がパンクする事を私は生れて初めて経験した。われと吾が肝の潰れる音を聞いた。
「……紫の……ハンカチ……」
という言葉が出かかって、そのまま咽喉《のど》にこびり付いてしまった。外に出たのはその口付きと呼吸《いき》だけであった。
少年はもう一度真赤になって微苦笑した。そうして今朝《けさ》の通りの凜々《りり》しい声を出した。
「あれはカルロ・ナイン殿下から頂きました。藤波弁護士に父の遺言書を渡したという合図に使いました。日本政府の手でJ・I・Cが退治られなければ、僕等の手でやっつける覚悟だったんです」
私はもう驚く力がなくなったらしい。何だか急にがっかりしてしまって、ぶっ倒れそうな気だるさに襲われながらも、きょろきょろと左右の入口をかえり見た。
少年はその意味を覚ったらしく、直ぐに左側の扉《ドア》を開いて、首をくくった自分の死骸を片手で軽々と外して来た。それは紫の紐《ひも》で首を縛った空気入りの護謨《ごむ》人形で、少年が手品に使用したものを油絵具か何かで塗り直して扉《ドア》の上の框《かまち》に突込んだ白箸《しろばし》に引っかけたものらしかった。少年は、その白箸ごと抜いて来て、無気味な恰好の人形を私の眼の前にぶら下げて見せながら、玄関口の扉《ドア》に向って心安げに叫んだ。
「……志免さん……お母さん。もうよござんすよ」
声に応じて待ち構えていたように右手の扉《ドア》が開いた。左腕を繃帯と油紙で釣った志免警視が、白い歯を見せながら、短いサアベルをがちゃ付かせて這入って来た。そのあとから白襟の礼装のまま化粧だけ直した志村のぶ子が、
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