たりと静止した。同時に何故ともなく自分の背後を振り返って見た。
月が出ると見えて、門の外の、線路の向う側にある木立が、白み渡った星空の下にくっきりと浮いて見える。
私は茫然とそこいらを見まわした。
……私はこの間、何をしていたか……。
私は面目ないが正直に告白する。……何をしていたか全く記憶しない……と……。否、自分が立っているか、坐っているかすら意識していなかったのである。ただこの時気が付いたのは、額の右側と鼻の頭とが、砥石のように平たく、冷たくなっている事であった。それは室《へや》の中の様子を一分一秒も見逃すまい、聞き逃すまいとして一心に硝子《ガラス》窓に顔を押し当てていたのであろう。そのほかに自分がどんな挙動をしていたか、どんな顔をしていたか、殆んど無我夢中であった。眼と耳以外のすべての神経や感覚が、あとかたもなく消え失せていたのであった。
そう気が付いた時に私は初めてほーっと長い長い溜息を吐いた。そうして直ぐにも室《へや》の中に飛び込もうとしたが、まだ一歩も踏み出さないうちに反対に後退《あとじさ》りをした。何が怖ろしいのか解らないまま全身がぶるぶると震えて、毛穴がぞくぞくと粟立って、頭の毛が一本一本にざわめき立った。
私はまだ半分無我夢中のまま室《へや》の中をそっと覗いて見た。見ると女はまだ椅子の上に横たわっている。今日の午後六時以後、私が眼の仇のように狙って来た疑問の女は、今眼の前に死んでいる。不倶戴天の讐敵と思い詰めて来たウルスター・ゴンクール氏も両手を投げ出したまま長くなっている。台所口の扉《ドア》はひとりでに閉まったらしいが、その二つの扉《ドア》の外にはもう二人の男女の死骸が、向い合って懸かっている筈である。
……私は又も、中に這入っていいか悪いかわからなくなった。
自分の居室《へや》でありながら自分の居室《へや》でない。……前代未聞の恐ろしい殺人事件のあった家……四人の無疵《むきず》の死骸に護られた室《へや》……その四人を殺した不可思議な女の霊魂の住家……奇蹟の墓場……恐怖の室《へや》……謎語《めいご》の神殿……そんな感じを次から次に頭の中でさまよわせつつかちかちと歯の根を戦《おのの》かしていた。
その時に私の背後を轟々たる音響を立てて、眼の前の硝子《ガラス》窓をびりびりと震撼して行くものがあった。それは中野から柏木に着く電車であった。その電車は、けたたましい笛を二三度吹きながら遠ざかったが、あとは森閑としてしまった。……間もなく、
「……柏木イ――……柏木イ――イ……」
という駅夫の声がハッキリと冷たい空気を伝わって来た。
私ははっと吾に帰った。同時に、おそろしい悪夢から醒めたような安心と喜びとを感じた。
……今まで見たのはこの世の出来事ではなかった。死人の世界の出来事であった。死後の執念の芝居であった。死人の夢の実現であった。
けれども私は依然として生きた私であった。生きた血の通う人間であった。電車が通い、駅夫が呼び、電燈が明滅し、警笛が鳴る文明社会に住んでいる文明人であった。……そうして眼の前に展開している死人の夢の最後の場面……四つの死体に飾られた私の室《へや》も、やはり、科学文明が生み出した日本の首都、東京の街外れでたった今起った一つの異常な事件の残骸に過ぎなかった。それは当然私が何とか始末しなければならぬ目前の事実であった。
私はこの時初めて平常の狭山九郎太に帰る事が出来たのであった。
……構うものか……這入ろう……。
と思った。それと同時に青年時代からこのかた約二三十年の間影を潜めていた好奇心が、全身にたまらなく充ち満ちて来るのを感じた。
私は用心しなくともよかろう……とは思いつつ本能的に用心しながら静かに硝子《ガラス》窓を押し明けた。栓が止めてないのでスーウと開《あ》いた。その窓框《まどかまち》に両手をかけて音もなくひらりと中に跳り込んで、改めて室《へや》の中を見渡した。
洋盃《コップ》は床の上に転がっている。絨毯は踏み散らされて皺《しわ》になっている。珈琲碗は飛び散っている。時計は九時五分を示している。
その下にゴンクール氏は黄蝋色に変色した唇を開いたまま、あおむいている。その丈夫そうな歯はすっかり乾燥して唇にからび附いている。
そんなものをすっかり見まわしてから私は静かに眼をあげて女の顔を見た……が……意外な事を発見して思わずたじたじと後退りをした。
……見よ……。
涙が一筋右の顳※[#「※」は「需+頁」、第3水準1−94−6、358−13]《こめかみ》を伝うて流れている。左右の長い睫《まつげ》にも露の玉が光っている。紅をつけた唇の色はわからないが厚化粧をした頬には処女の色がほのめいている。女は死んだ人間のように見えぬ。
この時の私の心持ちは
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