かなくなった。
……十秒……二十秒……三十秒……。
……突然……泣くのか笑うのか判らぬ表情が、その顔に動き初めた。その真白く大きく開いた口の下顎が左右にがくがくと動き出した。その白く蠢《うごめ》く舌の尖《さき》から涎《よだれ》がたらたらと滴った。その左右の緋色の眼は代る代るに大きくなり、又小さくなると同時に、眉は毛虫のように上下にのたくった。頬の肉は耳とつながってぴくぴくと上下し、遂には顔中の筋肉が一つ一つ違った方向に動きはじめた。……それは宛然《えんぜん》たる畜生の表情であった。
ゴンクール氏は辛うじて自分が死を免れた事を感ずると同時に、畜生の世界に蘇えり初めたのであった。それもこの世の畜生の世界ではない。その身体《からだ》附き、その表情、その喘ぎ方は全く地獄に住む獣類のそれである。地獄の火を取り巻いている獣類の一匹が「死」以上の恐怖に襲われた姿である。
彼はやがて不意にぶるぶると全身を顫《ふる》わして後退《あとじさ》りしたが又、卓子《テーブル》に両手をかけて女を見入った。女に近づこうとして又立ち竦《すく》んだ。
暫くして彼は又、突然に、思い出したように飛び上った。両足を踏みはだけて床の上に落した。そろそろと手を伸ばして卓子《テーブル》の上の灰色の封筒を取って、素早く握り込んで直ぐに女を見た。眼にも止まらぬ早さで名刺を取った。床に落ちたピストルを拾って又、女を見た。帽子と外套を探すらしく頭を押えながら、猫のように素早く室《へや》の中を見まわした。そうして室《へや》の中に、そんなものがない事がわかると、老人のように腰を屈めたまま、又も、キット女の横頬を見詰めながらじりじりと後退《あとじさ》りをした。うしろ向きに右手の扉《ドア》のノッブに手をかけてそろそろと開いた。そのままくるりと向き直ると、疾風のように外へ飛び出そうとした。
……が……彼はそのままぴったりと石のように凝固してしまった。眼の球を破裂する程剥き出し、口を裂ける程引き開き、両の拳を赤ん坊のように握り締め、膝頭をX形に密着《くっつ》け合わせたまま、床から生えた木乃伊《ミイラ》の姿に変ってしまった。そうして一心に、眼の前の入口の暗《やみ》の中から浮き出している真白い顔と、真黒い着物を凝視した。
それは白襟《しろえり》に黒紋附《くろもんつき》の礼服姿の女が、乱れかかった縮れ毛の束髪をがっくりとうなだれたまま、扉《ドア》の鴨居から床の上まで長々と裾を引きはえて吊り下がっているのであった。扉《ドア》を開けた拍子に動いたらしく、青い静脈を透きとおらした両手を、すこしばかり左右にぶらぶらさせていたが、それも間もなく動かなくなってしまった。
その顔を見上げていたゴンクール氏の舌が微かにふるえ出した。髪毛が一本一本に静電気を含んだかのように立ち上り初めた。その口を開《あ》いたままの咽喉《のど》がひくりひくりと動き出し、やがてぐるぐると上下したと思うと、遠い凩《こがらし》に似た声が、氏の全身の力を絞って戦《おのの》き出た。
「……ノブコ……シ……ム……ラ……」
その声がまだ消えないうちに室《へや》中を震撼する大音響が起った。青ペンキ塗りの扉《ドア》がぴったりと閉まったのだ。ゴンクール氏が閉めたのだ。続いて今一つ別の大音響が起った。女の前の丸|卓子《テーブル》がゴンクール氏の足の下で横たおしになった。その上からけし飛んだ珈琲器の一群が、左手の扉《ドア》に跳ねかかって切るような悲鳴をあげた。
その悲鳴を蹴散らしながら、その扉《ドア》を垂れ幕ごと引き開いて、外に飛び出そうとしたゴンクール氏は又も……ウウウ……と締め殺されるような声を出して背後によろめいた。襟《カラ》を引き除《の》け、ネクタイを引き千切《ちぎ》り、辷《すべ》りたおれようとして踏み止まりつつ、もう一度走り寄って、眼の前の物体を覗き込もうとした。夢中になって掴みかかるべく身を藻掻いた。
しかし……氏の眼にはもう何も見えないらしかった。
恐らくそれは氏の最後の努力であったろう……二三度虚空を掴みまわった。天に掻きのぼるかのように身を反《そ》らして爪立ち、又爪立った。そうして空間の何物かをしっかりと掴み締めたまま、次第次第にのけ反《ぞ》って行った。忽ち※[#「※」は「てへん+堂」、第4水準2−13−41、355−6]《どう》という大音響を室《へや》中にゆらめき起しつつ、椅子の向う側の壁の附け根に長くなった。
……あとには首のまわりに紫の紐を千切れる程喰い込ませた嬢次少年……今日の昼間に見た時の通りの扮装の美少年が、土色に透きとおったまま、入口の闇にぶら下って、きりりきりりと、ゆるやかに廻転し初めていた。
……室《へや》の中は旧《もと》の静寂にかえった。
……私の頭髪がざわざわざわざわと走り出しかけて又ぴっ
前へ
次へ
全118ページ中111ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング