、中から現われたものは小さな足付きの硝子《ガラス》コップで、中には昇汞水《しょうこうすい》のような……もっと深紅色の美しい色をした液体が四分目ばかり湛えられてあった。
 女はそれを前に置いて立ったまま、心静かに衣紋《えもん》を繕った。帯の間から櫛《くし》を出して後《おく》れ毛を掻き上げた。次には袂《たもと》から白の絹ハンカチを出して唇のあたりをそっと拭いた。そうして最後に、何事かを黙祷するようにうなだれた。
 ゴンクール氏の呼吸はいつの間にかひっそりと鎮まっていた。卓上電燈の光りは女と、その投影《かげ》に蔽われた男を蒼白く、ものすごく照し出した。
 三十秒……五十秒……あと一分……。けれども影のような女は顔を上げなかった。影のようなゴンクール氏も動かなかった……粛殺《しゅくさつ》……又粛殺……。
 やがて女は静かに顔を上げた。卓子《テーブル》の上の洋盃《コップ》をじっと見た。そうしてやおら手に取り上げて眼の高さに差し上げてもう一度じっと透かして見た。
 紅《あか》い液体が、室内の凡ての光りと、その陰影を吸い寄せて、美しく燦爛《きらきら》とゆらめいた。

 今や室内のありとあらゆる物の価値は、女の手に高く捧げられた真紅の透明な液体に奪われてしまった。時計の価格。裸体画の魅力。髑髏の凄味。机の上に並んだ書物の権威。そうして、その中に相対する男女の肉体、血、骨、霊魂……そんなものまでも今は夢のように軽く、幻のように淡く、何等の価値もない玩具同然に見えてしまった。唯、白い指に捧げられた美しい液体……真紅の毒薬……。すべてのものはその周囲に立ち並んで、自分自身の無力をそれぞれに証明しつつ、その毒薬の威厳を嘆美し、真紅の光明を礼讃するに過ぎないかのように見えた。
 ジリッ……と時計が鳴った。……最後の時が迫った。……軽い痙攣が男の横顔を蜥蜴《とかげ》のように掠めた。
 九時…………。
 ……私は見ていなかった。反射的に眼を閉じたから……ただ洋盃《コップ》が絨氈の上に落ちる音を聞いた。何物かに当ってピンと割れる響を聞いた。さらさらという絹摺れの音を耳にした。そうしてその瞬間に吾れにもあらず眼を開いた時に、女は丸|卓子《テーブル》から離れて弓のように仰《の》け反《ぞ》っていた。口の中の液体を吐き出すまいとするかのように空を仰いだ顔にハンカチを当てて、その上から両手でしっかりと押えていた。そのハンカチの下から軽い、微かな叫び声が断続して洩れ出した。しかしそれはほんの一秒か二秒の間であった。忽ちよろよろと後方《うしろ》によろめいた瞬間に頭髪の中から眼も眩むばかりのダイヤのスペクトル光が輝き出たが、それもほんの一刹那の事であった。
 ※[#「※」は「てへん+堂」、第4水準2−13−41、351−16]《どう》と肘掛椅子の中に沈み込んで、顔から両手を離すとそのままぐったりと横に崩れ傾いた。そのたった今|嚥《の》んだばかりの毒液に潤うた唇は、血のようにぶるぶるとふるえつつ、次第次第に傾いて行く漆黒の頭髪《かみげ》の蔭になって、見えなくなって行った。その頭髪《かみげ》の中から、たった一つ生き残った大きなダイヤがもう一度|燦然《さんぜん》と輝き現われて、おびただしい七色の屈折光を廻転させつつ、ぎらぎらと眼を射たが、それもやがてゆらゆらと傾いて行く髪毛の雲に隠れて、オーロラのように見えなくなってしまった。
 女は死んでしまった……。
 ……けれど時計はまだ、その閑静な音を打ち止んでいない。霧の中から洩れ出す教会の鐘の音《ね》をさながらに、悠々と……四つ……五つ……六つ……七つ……八つ……九つ……最後のカラ――ンという一つは室《へや》の中の小宇宙を幾度もめぐりめぐって、目に見えぬ音《ね》の渦を立てながら、次第次第に、はるかにはるかに、遂に聞えなくなってしまった。
 それと同時に室《へや》の一隅から、不可思議な怪しむべき幻影が、足音もとどろに室《へや》の中央《まんなか》によろめき出た。その乱れ立つ黄色の頭髪……水色にたるんだ顔色……桃色に見える白眼……緋色に変った瞳……引き歪められた筋肉……がっくりと大きく開いた白い唇……だらりと垂れた白い舌……ゆらゆらとわななく身体《からだ》……その丸|卓子《テーブル》の上に両手で倚りかかって、女の方を屹《きっ》と覗き込んだ姿……それは最早《もはや》人間でもなく、鬼でもなく、又幽霊でもない。
 それは眼に見えぬ暴風に吹きまくられる木《こ》の葉のような魂であった。恐怖の海に飜弄される泡沫《ほうまつ》のような霊であった。自分がどこに居るか。何をしているか。そんな事は全く知らない空虚の生命であった。その生命がこの世に認め得たものは唯「女の死」という一事だけであった。これを確《しか》と見届けた。そうして机に凍り付いたようにぴったりと動
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