《おもし》に置いた。その前に両手の指を支えて、室《へや》の隅に倚りかかって坐っているゴンクール氏を見下しつつ、謹厳な日本語で言葉をかけた。
「……ゴンクール様。わたくしから貴方に申上げねばならぬ事はこれだけでございます。……おわかりになりますか。わたくしの申上げております事が……。亡くなられましたお父様……志村浩太郎様と、嬢次様|母子《おやこ》の貴方に対する復讐はこれでおしまいなのでございますよ。妾《わたし》の役目はもうこれですっかりおしまいなのでございますよ。
……わたくしは皆様に代りまして貴方にお礼を申上げます。よく今まで御辛棒なすって、わたくし達の復讐をお受けになって下さいました。もう決してこの上に御迷惑はかけませんから何卒《なにとぞ》御安心下さいまし。わたくし達はもう死ぬよりほかに仕事が残っていないのでございますから……。その約束の時間は今から……七分……きっちり九時でございます。お喜び遊ばせ。貴方は今から七分経ちますれば、元のバード・ストーン氏にお帰りになる事が出来るのでございます。そうしてもし御運が強ければ無事に本国へお帰りになる事が、お出来になるかも知れないのでございます。
……もし御用でもございましたならば、どうぞ今の中《うち》に仰有《おっしゃ》って頂きとうございます。私はお待ち致しております」
女の言葉はここでふっつりと切れた。
併し相手は動かなかった。殆んど一点の生気もなく横わっていた。
否……唯一度、女の言葉が切れると間もなく、微《かすか》に眼を上げて、女を見ようと努力したようであった。けれどもそれはただそう見えただけで本当は動いたのかどうかわからなかった。
女は身じろぎもせずにそれを見つめている。
室《へや》の中に再び墓の中の静寂が充ち満ちた。
……突然じりっと微かな音がした。
それは時計の時鐘《じしょう》が、九時を打つ五分前に、器械から外れた音であった。
その音を聞いた瞬間にゴンクール氏の全身に、見えるか見えぬ位の微かな戦慄《せんりつ》が伝わったが、直ぐに又静まった。そうしてそのあとから次第次第に氏の呼吸が高まって来るのが見えた。遂には硝子《ガラス》窓の外からでも明らかにその呼吸の音が聞き取れる位になった。
氏は意識を回復し初めたのである。しかもそれは生きた人間としての意識ではないように見えた。逃れようにも逃れられない、広い、淋しい幽冥に引っぱり込まれていた氏の魂が、更に一層深い恐怖に襲われたために藻掻《もが》き初めたものらしい。氏は大浪を打つ呼吸の裡に、光りのない眼をソロソロと開いた。ほとんどあるかないかの努力で、恐ろし気に瞳を這わせつつ、辛うじて左右を見た。恰もそこいらに嬢次親子が立っているかどうかを確かめるように……そうして虫の這うようにそろそろと女を見上げつつ何か云おうとしたが、唯だらりと開いた唇がブルブルと慄《ふる》えるのみで、舌が硬ばっているために声が全く出なかった。それでも氏は云おうと努力した。……一度……二度……三度……目にやっとかすれた声で……殆んど言葉をなさぬ言葉が咽喉《のど》の奥から出た。
「……ア……ア……ナタ……ノ……ナマ……エハ……」
「ホホホホホホ。妾の名前でございますか。貴方はよく御存じでございましょう。ジョージ・クレイでございます」
「……………」
「貴方は最前|仰有《おっしゃ》ったでございましょう。わたくしは嬢次様に乗り移られていると……その通りでございます。わたくしは姿こそ女でございますが、心は呉井嬢次でございます。いいえ。身も心も嬢次様のものでございます。わたくしの名は呉井嬢次と思召《おぼしめ》して差支《さしつかえ》ございませぬ。……お尋ねになる事は、それだけでございますか」
「……………」
ゴンクール氏は、なお幾度も何事かを云おうとした。力のない手付きで襟《カラ》を引っぱって、咽喉《のど》を楽にしようとこころみつつ片手を突ついて女の顔を見上げた。そうしてそこで女と顔を見合わせたままピッタリと動かなくなった。死の世界へ陥りかけて、まだ微かに生気を取り残している慌しい「魂《たましい》」と死の世界に生きている静かな「霊《れい》」とはこうして互に顔を見合ったまま何事かを語り合おうとしていた。けれどもゴンクール氏は遂に口を利く事が出来なかった。ただ、片手で髪毛を掻き乱し、頬を撫でて犬のように舌をわななかしたと思うと、それっきり両手を支《つ》いてぐったりとうなだれてしまった。氏の魂は最早《もはや》、驚く力も、恐るる力もなくなったのであろう。
女は冷やかにそうしたゴンクール氏を打ち見遣った。そうして、しとやかに身を返して本箱のうしろから小さな白紙に包んだものを取り出して、静かに丸|卓子《テーブル》の上に置いた。大切そうにその包紙を取り除《の》けると
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