暗黒公使《ダーク・ミニスター》
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)暗黒公使《ダーク・ミニスター》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)下宿|住居《ずまい》をして、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、17−14]《みは》らせられて、

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)吾々《われ/\》
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[#テキストの中で4種類の文字の大きさを注記している。それぞれの大きさは、特大文字>大文字>中文字>(通常の本文の文字)>小文字]

     はしがき

「暗黒公使《ダーク・ミニスター》」なるものはどんな種類の人間でどんな仕事をするものかというような事実を、如実に説明した発表は、この秘録以外に余り聞かないようである。又そんな事実を自由に発表し得る立場に居る人物も、考えてみると余り居ないようである。
 その意味に於てこの発表は、或《あるい》は空前のものかも知れない。
 この外交秘録を発表するに当って、何よりも先にお断りしておきたいことは、筆者クローダ・サヤマ……すなわち私が、現在日本に居ない人間という事である。
 私は去る一九二一年(大正十年)の春以来、応用化学の本場である仏蘭西《フランス》の巴里《パリー》ドーフィン街四十番地の古ぼけた裏屋敷の二階に下宿|住居《ずまい》をして、忠実な男女二人の助手と三人で「化学分析応用……特に有機、毒物、酒類」という小さな広告を時々新聞に出している者であるが、その助手の一人で語学の達者なミキ・ミキオという青年が、この頃色んな探偵事件に引っぱり出され初めて、焙《い》り麦みたように家《うち》の仕事をすっぽかすようになった。おかげで私はすっかり仕事が閑散になったので、その暇つぶしに、私が警視庁の第一捜査課長を辞職して、日本を去るに至った、その失敗の思い出話として、この事件を書いて見る気になったものである。
 一つは日本でも……と云ったら叱られるかも知れないが、近来探偵小説が非常な流行を極めていると聞いたので、私のような老骨の経験談でも興味を感ずる人があるかも知れないと思って書かしてもらうので、決して商売の広告や、主義思想の宣伝でない事は前|以《もっ》て十分にお断りして、この拙《まず》い一文を読んで下さる「探偵好き」の方々に、深甚の敬意を表しておきたいと思う。
 それからもう一つ特にお断りしておきたい事は、この事件の起った当時の日本が、十年一と昔というその西暦一九二〇年……すなわち大正九年以前のそれで、云う迄もなく震災以前の事だから、現在の日本とは格段の相違があると思われる一事である。
 現在の日本は西暦一九三〇年前後を一期《いちご》として、世界の最大強国となりつつ在る。世界大戦でも何でも持って来いという、極めて無作法な態度で、ドシドシ満洲国を承認して東洋モンロー主義を高唱しつつ、列国外交の大帳場たる国際聯盟の前にアグラを掻いている。おまけに、自国の陸軍を常勝軍と誇称《こしょう》し、主力艦隊に無敵の名を冠《かむ》せ、世界中の憎まれっ児《こ》を以て自認しつつ平気でいる。
 同時に国内に於ては、明治維新以来の西洋崇拝熱を次第に冷却させて、代りに鬱勃《うつぼつ》たる民族自主の意識を燃え上らせ初め、国産奨励から、産業合理化、唯物的資本制度の痛撃、腐敗政党の撲滅《ぼくめつ》、等々々のスローガンを矢継早に絶叫し、精神文化を理想とする生命《いのち》がけの結社、団体を暗黙の裡《うち》に拡大強力化して、世界の脅威ともいうべきソビエットの唯物文化を鼻の先にあしらおうとしている。
 一方に米国で催された国際オリンピック競技では、さしもに列国が歯を立て得なかった水上の強豪、米国の覇権を、名もない日本の小|河童連《かっぱれん》の手でタタキ落させ、何の苦もなく世界の水上王国の栄冠を奪い取らせるなぞ、胸の空《す》くような痛快な波紋を高々と、近代史上に蹴上げている。
 こうした母国の意気組を、はるかに巴里《パリー》の片隅から眺めていると、片足を棺桶《かんおけ》に突込んでいる私でさえ、真に血湧き肉躍るばかりである。日本の若い連中はもう、自分達が人類文化を指導しているつもりで、シャッポを阿弥陀にしていはしまいかと思われる位である。
 しかし十年|前《ぜん》……私が警視庁に奉職していた前後の日本はナカナカそんな暢気《のんき》な沙汰ではなかった。現在のように列国と大人並に交際《つきあ》って行くどころの騒ぎではない。赤ん坊扱いにされまいとして悲鳴をあげている時代であった。英米の高圧外交にかかって、ひねり殺されたくないばっかりに、必死的なストラグルを続けているという、見っともな
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