い、情ないジタバタ時代であった。
すなわち外交方面では、欧洲大戦が終熄《しゅうそく》に近づいて米国が世界の資本王となり得べき可能性が確立した時である。そうして、東洋の邪魔者日本に挑戦すべく、猛悪な排日案を挙国一致の一般投票で決議する一方、自国内に於ては資本主義社会に附きものの暗黒面組織《ダークサイドシステム》をぐんぐん拡大深刻化し初めた頃である。同時に人種的分裂と、物質の欠乏に悩む欧洲の地図の色が百色眼鏡《ひゃくいろめがね》のように変化し初め、露西亜《ロシア》と独逸《ドイツ》が赤くなり、又青くなり、伊太利《イタリー》に黒シャツ党が頭を上げ、西比利亜《シベリア》に白軍王国が出来かかり、満洲では緑林王《りょくりんおう》(馬賊王)張作霖《ちょうさくりん》が奉天《ほうてん》に拠《よ》って北方経営の根を拡げ、日本では日英同盟のお代りとなるべく締結された日仏協約が、更に一歩を進めて、英の新嘉坡《シンガポール》と、米の比律賓《ヒリッピン》に於ける海軍根拠地を同時に脅かすべく、仏領|印度《インド》に関する秘密協商となって進行し初めていた。……と云えば、いい加減若い人達でも、その当時の眼まぐるしかった新聞記事の大活字を思い出すであろう。
従って相当記憶の悪い人でも、そんな記事と関聯して、そんな記事以上のセンセーションを捲き起した有名な「暗黒公使《ダーク・ミニスター》事件」の大々的報道を思い出してくれるであろう。そうしてその帝都空前の大事変の舞台となった、その当時の大東京の風景を思い出してくれるであろう。
その頃の東京も今の東京と比較したら全く隔世の感があるに違いない。震災をステップ・インするや否や一挙に二三十年分の推移を飛躍したというのだから……。
その頃の宮城前の馬場先一帯は大きな、草|茫々《ぼうぼう》たる原っぱになっていて、昼間は兵隊が演習をしていた。夜は又半出来のビルデングや建築材料、板囲《いたがこい》なんぞの間を不良少年少女がうろうろする。時折りは追《お》い剥《は》ぎ、ブッタクリ、強姦、強盗、殺人犯人なぞいう物凄い連中が、時を得顔に出没している有様であった。そのほか無線電信のポールは市内に一本も無かったし、ラジオやトーキーなんぞは無論ありようがない。飛行機は年に一度ぐらい外国人に飛んで見せてもらっていた。また現在エロの大極楽園《パラダイス》になっているという新宿なんぞも純然たる町外れで、時たま自動車が走ると犬が吠え付くという情ない状態であったから、今の人達に話したら本当にしない人が出て来るかも知れないと思う。
だからその当時まで私が奉職していた警視庁の仕事ぶりなぞも、殆《ほと》んど明治時代と択《えら》ぶところがなかった。上《かみ》は総監から下《しも》は巡査刑事に至るまで一人残らず旧式の拷問応用の見込捜索ばかりを、飽きもせずに繰り返していたものである。もっとも明治四十一年に私が立案した方針で設置された鑑識課なるものが在るにはあったが、その機能を本式に使って、本格の推理的な探偵捜索を進め得るものは、自慢ではないがやっと私と、私が仕込んだ二三名の若い部下ぐらいのものであった。
ところが、そうした私の苦心努力の結果私が退職の二三年前に有名な外交文書の紛失事件と、評判の迷宮殺人事件を解決してから、やっとこの鑑識課の仕事が認められて来る段になると、今度は日本人の特徴として一も鑑識、二も鑑識と鑑識万能の時代になって来た。早い話が新聞社の連中でも「目下捜索中」と云った位ではなかなか承知しないが「目下鑑識課で調査中」と云えば「成る程|左様《さよう》ですか」と敬意を表して引き退《さが》る状態で、刑事なんかは何の役にも立たないように考えられる時代が来た。
ところが又そうなると私の癖かも知れないが、すっかり鑑識課の仕事を馬鹿にしてしまって、ほんの参考程度の役にしか立たないものと見限《みき》りを附けるような頭の傾向になっていた。従ってこの「暗黒公使《ダーク・ミニスター》」事件でも、私は殆んど鑑識課の仕事を度外視しているように見えるかも知れない。同時に私の行動が如何《いか》にも旧式な、精力主義一方の探偵方針で働いているように見えるかも知れないが、これは止むを得ない……ただ賢明なる読者諸君の批判に訴えるより外に仕方がないと諦めている。
しかし強《し》いて云い訳をすれば出来ない事もない。
元来探偵事件の興味の中心が、その犯罪手段や探偵方針のハイカラかハイカラでないかに繋《かか》っているものでない事は、一八〇〇年時代の探偵記録や裁判|聞書《ききがき》が、依然として現代の巴里尖端人《パリジャン》に喜ばれている事実に照しても一目瞭然で、私がこれから述べようとする「暗黒公使《ダーク・ミニスター》事件」の興味も、そんな[#「そんな」は底本では「そん」と誤記]点
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