のである。ただその半ば開いた唇の辺が、時々|微《かすか》に震えているのが全く死に切れないでいる証拠であろう。
 女はそうした相手の姿を冷やかに見下してかすかな笑みを浮かめたようである。大方、ゴンクール氏が、自分の望み通りになったのを喜んだものであろう。いくらか勝ち誇った気持を見せて笑った。
「……ゴンクール様……貴方は最早《もう》そんなに、おなりになりましたか……。お弱いお方ですこと……ホホホホ……。
 ……けれども妾《わたし》は嬉しゅうございます。これからが妾の世界でございますから。私は嬢次様のお頼み通りに貴方を罰する事が出来るのですから。落ち着いてこの号外を読む事が出来るのですから……。
 ……ですけどもゴンクール様。わたくしはその前に貴方に申上げておかねばならぬ事があります。それは……この号外を聞いている人が貴方お一人でないという事です。この室《へや》の外で、この号外の読み声を聞いておいでになる方がお二人あるという事です。そのお二人は志村のぶ子さんと呉井嬢次様でございます。お二人は御自分の思い通りの仇討ちが実現されましたこの号外の中の出来事が、貴方のお耳にすっかり這入ってしまうのを見届けてから、わたくしと一緒に自殺なさる手筈になっているのでございます。国賊の妻……売国奴の子としての一生を終って、立派な日本民族としての、死後の魂を復活しようと思って、待ちかねておいでになるのでございます……そうして妾も及ばずながら、淫奔者《いたずらもの》の名を洗い淨めまして、日本人らしい清らかな、魂ばかりの愛の世界に蘇りたいと、あこがれ願っているのでございます。
 ……わたくし共のこの願いを、お許しにならない方は一人もおいでになりますまい。
 ……狭山さまも、わたくしどものこうした心をお察しになったものか、まだお帰りにならぬようでございます。九時までにはまだゆっくり時間がございますね。
 ……まだお眼にかかりませぬが、お父様の志村浩太郎様も、あの世から、わたくしの声をお聞きになっているのでございましょう……」
 女がこう云い切った時、室《へや》の中は全く墓場の光景と化し去っていた。ゴンクール氏の眼は空しく女の影を反映し、耳は徒《いたずら》に女の声を反響するばかり……顔面に何等の反応もあらわさない。それと相対《あいむか》って死人の怨恨を述べる女の影。音もなく廻転する時計。ひらひらと瞬く電燈のタングステン。向うをむいて立っている裸体美人の絵像。それを睨み付けている骸骨。机。書物。壁。床。天井。それ等のものの投影……その窓の外に、女の手許の号外の狂人《きちがい》じみた大活字の排列を覗き込みながら、気を呑み、声を呑んで、全神経を凝固させている私……何一つとして生気の通うものはない。
 室《へや》の内も外も全く地下千尺の底の墓場の静寂に満たされている。その中《うち》にゆるゆると号外の内容を訳読する女の、冷やかな、物淋しい声も、少しもこの世の響きを止めていない。陰森《いんしん》として肌に迫る冷気の中に投影しあらわれた幽界の冥鬼が、生前の怨み、死後の執念を訴えるもののようであった。


     警視庁の精鋭[#大文字、太字]
       B・S・曲馬団と戦う[#中文字]
        ピストル機関銃の乱射乱撃[#中文字]
          警官団員の死傷数十名
     帝国ホテル修羅場と化す[#大文字、太字]
     ―――――――――――――――――――
        本日午後四時
     熱海検事一行突如[#大文字、太字]
       B・S・団員全部に令状を執行す[#中文字]

 本日午後三時前後より、丸の内、警視庁内何となく色めき立ち、密かに警官刑事の非常召集が行わるる一方、各首脳部の往来甚しく、総監室に集合して鳩首擬議中であったが、同三時半頃に至り、某国大使館に趣きたる警視総監|高星威信《たかぼしいしん》子爵が、外務省機密局長松平友麿男爵、弁護士藤波堅策氏と同車にて警視庁に帰来するや、庁内は俄然《がぜん》として極度の緊張を示し、召集したる私服警官の多数を三々伍々派出して、目下丸の内三菱原に開演中のバード・ストーン曲馬団の内外に配布し、同演技場を包囲する気勢を示せり。そして同四時五分に至り、同曲馬団の最後の演技たる「馬の舞踏会」が終了し、満場の観衆が悉《ことごと》く散出し終るや、検事局熱海弘雄検事は、甲府予審判事平林書記を随え、新任第一捜査課長|志免友衛《しめともえ》警視、日比谷署長|東馬健児《とうまけんじ》警視、通訳、その他新聞記者と共に同曲馬団を訪い、団長バード・ストーン氏に面会を求め、危険思想者潜入の疑いあるに依り、団員全部を即時、警視庁に同行し取調ぶる旨を申渡し、且つ、取調べに応じたる上は一人も罪人を出さず、無事帰国せし
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