察の手にお渡ししたいために、生命《いのち》がけでお待ちしておりましたのです。嬢次様の讐討《あだう》ちのために……。そうして嬢次様御一家の限りもない愛国心のために……。
 ……貴方はそうした妾の心がおわかりになったのでございましょう。
 ……日本で罪をお作りになりますと、亜米利加のように自由自在にお逃げになる事が出来ないのでございますからね。たとい貴方が妾をお撃ちになって、その拳銃《レボルバ》にわたくしの指紋を附けて、足跡を消しておいでになったとしても、間もなく狭山様がお帰りになって、その銃口の磨《す》れた、新しい拳銃《レボルバ》を御覧になれば、すぐに貴方だという事をお察しになって、貴方のお靴の踵《かかと》が、まだ日本の土を離れないうちにお捕えになる事が解り切っておりますからね。狭山様のお眼には世界中が硝子《ガラス》のように透きとおって見えているのですからね。
 ……万に一つ……それでも貴方が狭山様に見逃しておもらいになるような事がありましても、死んだ妾達四人の怨みだけはお逃れになる事が出来ないのでございますよ。貴方は今日妾が申し上げた事を死ぬが死ぬまでお忘れになる事が出来ないのですよ。……日本人には死後の執念がある……という事を……。日本人に悪い事をなさると、生き代り死に代り、何人でも何人でも生命《いのち》がけで怨みに来る……ということを……。
 ……貴方はこれから毎日、生きながら、死刑と同様の苦しみをお受けにならなければなりませぬ。
 ……眼に見えぬ嬢次様の手に頭髪を掴まれ、眼に見えぬ志村御夫婦の怨みの縄に咽喉《のど》を締められておいでにならなければなりませぬ。
 ……貴方は、そんなものがこの世にないと思召《おぼしめ》しますか。お国の亜米利加にはありますまい。しかし日本にはございます。その証拠はわたくしでございます。わたくしは亡くなられた志村浩太郎様御夫婦の怨みを貴方に御伝えするお使いの女です。
 ……わたくしは生きて甲斐《かい》のない身体《からだ》でございます。もう死んでいるのも同然の女でございます。ただ嬢次様の怨みを晴らすために生きているのです。ただこの号外を貴方に読んでお聞かせして、日本民族のためにならぬ貴方の御計画が、二年前にお亡くなりになった志村浩太郎様のお望みの通りにすっかり駄目になった事をお知らせするために生き残っているのでございます」
 ……この幻影……美しい女の姿……暗い静かな声は、次第次第にゴンクール氏の魂を包んで行った。「死んだ者の怨みの声」を聞き「眼に見えぬ執念の手」に触れられるこの世の外《ほか》の世界へ、一歩一歩引き込んで行く。
 抵抗しようにも相手のない「この世の外《ほか》の力」……その力はゴンクール氏の魂をしっかりと握り締めて、次第次第に死の世界へと引っぱり寄せて行く。
 手を押えられたのならば振り放す事が出来る。足を捉えられたのならば蹴飛ばす事が出来る。牢に入れられたのならば破ることが出来る、けれども魂を捕えられた者は逃げようがない。仮令《たとえ》宇宙の外に逃げる事が出来ても魂が自分のものである以上、捕えた手はどこまでも随《つ》いてくる。しかもその魂を捉えている手は影法師と同様の力のない手である。……ゴンクール氏の魂は唯、空《くう》に藻掻《もが》くばかりであった。
 涯てしもない恐怖によって絞り出された、生命そのものの冷たい汗に濡れた氏の顔面は、蒼白い燐火のような光りを反映し、その赤味がかった髪の毛は、囚われた霊魂の必死の煩悶と苦悩のために一|呼吸毎《いきごと》に白く枯れて行くかと思われた。それでも氏はなおも最後の無我夢中の力を振り絞って、無理に眼を見開いて相手の女を見ようとした。疲れ切ってひくひくと引き釣る腕を引き上げて女を狙おうとした。自分を呪うべく突立っている眼の前の美しい幻影に向って、死物狂いの一発を発射しよう発射しようと努力した。
 けれどもその力も全く尽きる時が来た。
 氏の全身に残っている生命《いのち》は一努力|毎《ごと》に弱くなり、一|喘《あえ》ぎ毎《ごと》に稀薄《うす》くなって行った。恰《あたか》も室内に籠っている煙がいつの間にか消え失せてしまうように、殆んどあるかないか判らぬ位になってしまった。ぐったりと垂れ下った手の指から拳銃《ピストル》は、おのずと抜け落ちて、床の上に音を立てた。その肩は落ち、腰は砕けて、よろよろとよろめいて室《へや》の隅にたおれかかって、斜にずるずると半分ばかり傾いて、頭をがっくりとうなだれると、支那産の絨毯の上に手と足を投げ出したまま、森閑と動かなくなった。その顔面の筋肉は蝋のように垂れ下って、力なく伏せた瞼の下の青い眼はどこを見ているのかわからぬように、どんよりと白茶気てしまった。死の影は全くゴンクール氏を蔽うてしまった。氏の全身は死相を現じて来た
前へ 次へ
全118ページ中105ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング