の時の志村浩太郎氏のお心持ちが、貴方におわかりになりますか。貴方のために欺されて、楽しい家庭をバラバラにされた上に、J・I・Cの中に捲き込まれて、とうとう責め殺されておしまいになった、その志村浩太郎様の残念なお心持ちが、貴方におわかりになりますか。
……志村様はJ・I・Cの秘密……貴方の秘密をすっかり発《あば》いて、その秘密を微塵に打ち砕いて、奥様や、お子様の生命を貴方の手から救い出して頂きたいために、警視庁の狭山様の宛名にして遺言を書いていられたのでございますよ。嬢次様は日本に来られてその手紙を手に入れてから初めて凡ての事が、おわかりになって、いよいよ曲馬団を逃げ出す覚悟をなすったのでございますよ。
……貴方は仕合わせなお方です。その遺言が宛名のお方の手に渡らずに、嬢次様のお手に這入りましたばっかりに、貴方は御運がよければお助かりになる機会があるかも知れない事になったのでございます。
……その代り貴方は、世界中のどこへお出でになりましても志村浩太郎様の思い残されたお怨みだけはお受けにならなければなりませぬ。嬢次様が私に頼んでおいでになった貴方に対する復讐だけはお受けにならなければなりませぬ。
……その復讐と申しますのは貴方が日本にお出でになった目的が何もかもすっかり駄目になった事を、お知らせする事でございます。貴方が生命《いのち》をかけて愛しておられました志村のぶ子様が、貴方の宝物のようにしておられました呉井嬢次様と一緒に天国へお旅立ちになりました事……それから、まだ御存じない事と思いますが、あなたのお留守中に曲馬団の重立った人々が一人残らず警視庁の手で縛られてしまいました事……それから、これは尚更のこと御存じないと思いますが、露西亜のウラジミル大公のお孫さんでおいでになるカルロ・ナイン嬢が、そのお守役の日本人で、ハドルスキーと名乗っていた樫尾という陸軍大尉と一緒にもうすこし前M男爵のお邸《やしき》に引き取られて、近いうちにセミヨノフ軍の参謀の方とお会いになる手筈がきまっておりますこと……。
……最前貴方がお出でになりますと間もなくかかって参りました電話は、志村のぶ子様から私にこの事を知らせて参りましたものでございます。又、今すこし前貴方から帝国ホテルにおかけになりました時に、すぐにハドルスキーの樫尾様が出て見えましたのは、樫尾様が貴方をお欺しして油断をさせるために、帝国ホテルで待ち構えておいでになったのでしょうと存じます。
……帝国ホテルにはJ・I・Cの人はもう一人も居ない筈でございますから……。
……その証拠はここにあるこの号外でございます。この号外はもう一時間半ばかり前、貴方がこの家にお着きになる前に配って来たものですから、東京市中には残らず行き渡っているでございましょう。貴方は今日の三時過ぎからお忙しかったために、この号外をまだ御覧にならなかったのでしょう。貴方にこの号外を通知する人が、一人残らず警視庁に挙げられたせいでもございましょうけど……」
女の言葉はいよいよ出でて、いよいよ励《はげ》しくなって行った。窓の外で聞いている私でさえも真偽の程を疑わずにはいられない事実……眼を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、333−5]《みは》り、息を喘《はず》ませずにはいられない恐ろしい大変事を、平気ですらすらと述べて行く……その物凄い光景に肌を粟立たせずにはいられない位であった。
況《ま》してゴンクール氏は全力を尽して女の言葉を遮ろうとしているように見えた。白い銃口を上下にわななかせながら、眼を固く閉じて女の姿を見まいとした。歯をギリギリと噛み締めて女の声を聞くまいとした。両手の拳を砕けよと握り締めて、一発の下に女の息の根を止めようと努力し又、努力した。最後には両脚を棒のように踏み締めて死にかかった獅子のようにぶるぶると身をもだえた。けれどもどうしてもその弾倉撥条《バネ》を握り締める力が出ないらしかった。
その間に懐中から取り出した一枚の四半頁大の号外の折り目を丁寧に拡げ終った女は、もう一度眼の前にわななく銃口を見ながら、ひややかに笑った。
「……ホホホホホホホ。ゴンクール様。貴方はどうしてもその引き金をお引きになる力がおありにならないのですね。
……御尤でございます。
……そのわけは、よく存じております。
貴方はまだ日本の法律に触れておいでになりません。日本人にとって一番憎らしいお方でありながら、日本の法律ではまだ貴方を罰する事が出来ません。けれども万一|妾《わたし》をお撃ちになったらその時から貴方は罪人におなりになるのですからね……。私は貴方にそうして頂きたいために、この室《へや》でお待ちしていたのです。貴方の仲よしの××大使様でも、指一本おさしになる事が出来ないようにして貴方を警
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