に、嬢次様に欺されてこのような事をしていると思っておいでになるでしょう。私の生命《いのち》はただ嬢次様にだけ捧げているものと、お思いになっているでしょう。
 ……ですけど……お気の毒ですけど、それは違います。それは大変な貴方のお考え違いです。わたくしの生命《いのち》は、嬢次様を通じてもっともっと大きな事のために捧げているのでございます。わたくしから進んでその仕事をお引き受けした位でございます。
 ……その仕事とは何でございましょうか。
 ……日本のためにならぬJ・I・Cの秘密結社を打ち壊す事でございます。この仕事は、亜米利加を怖がっている日本政府のお役人たちには出来そうにない仕事です。又、他人の狭山様に後で迷惑がかかるような事になっても困るから自分一人で片付けるつもりだと嬢次様は云っておられましたが、わたくしは無理にお願いして、その中《うち》でも一番おしまいの仕事を受け持たして頂いたのでございます。それは妾のように、まだ貴方にお眼にかかった事のない、若い女でなければ出来にくい仕事でございましたから……。
 ……その仕事とは何でございましょうか……。
 ……貴方を殺す事です。……世界中で一番浅ましい人間を集めて、世界中で一番憎らしい仕事をする者を亡ぼして終《しま》うことです。表面《うわべ》に正義とか人類のためとか云って、蔭では獣《けもの》や悪魔の真似をするウルスター・ゴンクールを生きながら殺して終《しま》うことでございます」
 見よ……見よ……見よ……。
 指が白くなる程固く握り詰めているウルスター・ゴンクール氏の拳《こぶし》は、自然自然と紫色に変って、微かにふるえ出して来た。ゴンクール氏は、それを尚も力を籠めて握り締めようとした。けれどもその拳も指先も最早《もう》すっかり痺れたらしく、次第に垂れ下って床に近付いて来る。
 その代りに呼吸は眼に見えて荒くなって来た。その胸と肩は大波を打ち、その膝頭はわなわなと戦《おのの》き出した。憤怒の形相《ぎょうそう》は次第に恐怖の表情に変って、頬や顳※[#「※」は「需+頁」、第3水準1−94−6、329−12]《こめかみ》の筋肉はヒクヒクと引き釣り、その眼と口は大きく開いて凩《こがらし》のような音を立てて喘《あえ》ぎに喘いだ。
 ゴンクール氏は今や正《まさ》しく、その鉄をも貫く連発の銃弾が、何の役にも立たない事を知ったのである。この世にありとあらゆる威嚇の中《うち》でも唯一無上の「死の威嚇」が、この女に限っては何等の効力も示し得ない事を覚ったのである。眼の前に立っている美しい幻影が、恰《あたか》も影法師か何ぞのように生命の価値を知らぬ存在である事を知ったのである。
 ゴンクール氏の意識から見ると「死」は凡《すべ》ての最後であった。しかし女にとっては「死」が仕事の出発点であった。ゴンクール氏の仕事は生きた人間の世界で価値をあらわす仕事であった。これに反して女の仕事は死んだ人間にとってのみ価値あるものであった。死んで行く人……もしくは死んだ人のために死を覚悟して……言葉を換えて云えば死の世界から死の仕事をしに来ているのであった。それはゴンクールが生れて初めて聞いた仕事であった。実際に見た事のない異国人の愛国心であった。事実にあり得ないと考えていた白熱愛のあらわれであった。かくして以前《もと》のロッキー山下の禿鷲《コンドル》。殺人請負《ガンマン》の大親分《ボス》。今の米国の暗黒境王《ギャングスター》。ウオール街の暗黒公使《ダーク・ミニスター》、J・I・Cの団長ウルスター・ゴンクール氏は、この女が顔を見合わせた最初から、自分と全然違った世界に居た者である事を拳銃《ピストル》を突き付けてみた後《のち》にやっと気付いたのであった。
 その世界……女の居る世界は、氏がまだ見た事も聞いた事も……想像した事すらない……この世のあらゆるものの権威……あらゆるものの価値を認めぬ……すべての光明……すべての感情を認めぬ、静かな、淋しい、涯てもない暗黒の世界であった。この無名の女の姿はその中から自分を脅かし、自分の旧悪を責めるために現われた一つの美しい幻影に過ぎなかった。
 氏は驚き、恐れ、眼を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、330−15]《みは》り、口を開いて喘《あえ》いだ。頬や首すじを粟立たせ、五体をわななかせて震え上った。
 けれども女の声は、闇黒の底を流れて、人の心を誘う水のように、どこまでも冷たく、清らかに続いて行った。
「……けれどもゴンクール様……。嬢次様のお怨みは、それだけではなかったのでございます。貴方がたを日本の警視庁の手で片付けて頂いた位では嬢次様の御無念は晴れなかったのでございます。
 ……貴方は二年前に志村様がお亡くなりになった時の事を御記憶になっているでございましょう。そ
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