ぬ流麗な英語であった。さながらに名歌手の唇と情緒を思わせるような……。
「お撃ちなさい……撃って下さい……ゴンクール様。妾《わたし》はもうこの世に望みのない身体《からだ》でございます。妾の一生涯はもう過ぎ去ってしまっているのでございます。……ですからもう何もかも本当の事を申上げてしまいます。そうして貴方の御勝手になすって頂きます。
……最前からわたくしが申しました事は、みんな真実でございます。……けれども……その中《うち》にたった一つ嘘がございました。それは妾が狭山の姪という事でございます。妾は狭山様と縁もゆかりもない者でございます。
……妾が狭山様のお宅に伺いましたのは今日が初めてでございました。それまではただお顔とお名前を新聞で存じておりましただけでございました。
……わたくしたち三人……志村のぶ子様と、呉井嬢次様と、わたくしとの三人は、狭山様のお手を借りないで、あなた方に復讐をするために、わざと狭山様のお家を拝借したのでございます。そうして貴方以外の方々への復讐は完全にもう遂げられているのでございます。その事を貴方がお気付きにならないように貴方をここへ引き止める役目を妾が受持ちまして、ここにお待ちしていたのでございます。
……お二人は、ですから最早《もう》安心して天国へお出でになった事と思います。貴方がここへお出でになる事を警視庁に知らせて、警視庁のお手配りがすっかりこの家のまわりを取り巻くまで、妾が生命《いのち》がけで貴方をお引き止めしている事を、お二人とも固く信じて、妾があとから参りますのをあの世で待っていて下さる事と思います。
……志村様|母子《おやこ》に、そんな怨みを受ける覚えがないとは申させませんよ。わたくしは何もかも存じておりますよ。嬢次様は日本にお着きになりますと間もなく、お父様の志村浩太郎様が或る弁護士に預けておかれた遺言書を受取っておいでになるのですよ。貴方が志村様一家に、どのような非道《ひど》い迫害をお加えになったかを詳しく書いてあります。長い長い狭山様宛てのお手紙を……。自分の死後の敵ウルスター・ゴンクールを是非とも斃《たお》して下さい……という文面を……。
……ゴンクール様……貴方は何故わたくしをお撃ちにならないのですか。わたくしは貴方の秘密をすっかり存じているのでございますよ。只今帝国ホテルにおかけになった貴方のお電話の意味も一つ残らず記憶《おぼ》えているのでございますよ。私は貴方に殺される覚悟で貴方をお欺し申したのですよ。今の中《うち》ならまだ警視庁の手がまわっていないかも知れないではございませんか。貴方は今日横浜にお出でになって、メキシコ石油商会の競走用モーターボートをお買求めになって芝浦にお廻しになるのと一緒に、横浜を今夜の十時までに出帆する亜米利加《アメリカ》と加奈陀《カナダ》と智利《チリー》通いの船の名前をすっかり調べておいでになるではございませぬか。それは万一嬢次様が曲馬団の内情を警視庁にお訴えになった時に自分一人で外国にお逃げになる御用心のためではございませぬか。今ならまだ、お間に合うかも知れないではございませんか。
……わたくしは死ぬのはちっとも怖ろしくはございませぬ。妾は嬢次様にお別れした時から死んでいるのですもの……。御覧なさい。この絨毯《じゅうたん》は狭山様のお宅の床が、妾の血で穢《けがさ》れないように敷いたのです。壁紙も、窓かけも、何もかも妾の死に場所を綺麗《きれい》にしたいために新しく飾り付けたのです。
……こう申しましたら貴方はあの時計と髑髏《どくろ》が、何のために飾り付けてあるかという事が、おわかりになるでしょう。この二つのものは、わたくしが死を覚悟致しておりました事を、あとで狭山様におしらせするために飾り付けたのです。
……さ……お撃ちなさい。貴方のお手にはその撃鉄《ひきがね》を引くお力がないのですか。貴方のお心の力は、そのバネの力よりもお弱いのですか。貴方は今まで、何でもない事で、度々そんな事をなすった事がおありになるではございませぬか」
女の声は、その態度と共に益々冷やかに落ち着いて来た。これに反してその言葉は一句|毎《ごと》に烈しい意味を含んで来た。その一語一語は悉《ことごと》く一発の尖弾……死に値するものであった。
しかしその言葉が進むに連れて……否……女の言葉が烈しくなればなる程、室《へや》の中に充ち満ちていた殺気――間一髪を容れぬ危機は次第に遠退《とおの》いて行った。そうして女の冷やかな言葉の切れ目切れ目|毎《ごと》に、この世のものとも思われぬ深刻な淋しさが次第次第に深くなって来た。
「……貴方は、どうしても妾をお撃ちになりませぬね。……それではもっとお話し致しましょう。
……ゴンクール様……貴方は、わたくしが只、愛に溺れたため
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