寸唇を噛んで鼻白んだ。しかし間もなくニッコリと笑った。ストーン氏のひょうきんな微苦笑とコントラストを作る淋しい、悲しい笑いであった。
「そうでございません。嬢次様も、お母様も、今日になって急に自殺されなければならぬような大変な事が出来たのです。それで後の事を私にお頼みになって、死に場所を探しにお出でになったのです」
「その大変な事どんな事です」
「志村ノブ子様は日本に居られました時に、叔父に捕まえられなければならぬような悪い事を、知らないでなすったそうでございます。その云い訳が出来なくなりましたので米国へ逃げてお帰りになったのです……ですから今でも叔父に見付かったら大変な眼にお会いになるのです」
「ミスタ・サヤマが正しいのです」
「それから嬢次様も、あなたの曲馬団に悪い事をされたのでございますから叔父に捕まえられてはいけないのです。それから、わたくしも叔父に隠し事をしているのでございますから、私たちが死んで申訳を致しませぬ限り叔父は決して許しますまい」
「ミスタ・サヤマはいつも正しいのです」
「それに叔父が今日曲馬団に来ておりまして、あのように妾《わたし》たちの仕事を察して、粗相《そそう》のないように保護しているのを見ますと、叔父はもう、とっくに何もかも見破って、わたくし達三人を一緒に捕まえようとしているのに違いないのでございます」
「ミスタ・サヤマはもう二人を捕まえているでしょう」
「……そうかも知れませぬ。けれどもその前にお二人は自殺していられるでしょう」
「何故ですか」
「叔父の狭山が二人を捕まえましたならば、とりあえず貴方の手に引渡すでしょう」
「……それが正しいのです」
「そうしたらお二人は、貴方のトランクの中に在る、鉛の球《たま》を繋いだ皮革《かわ》の鞭で打ち殺されてしまわれるでしょう」
「……そ……そんな……あははは……それはみんな嬢次の作り事です。貴女《あなた》を欺して、ここに棄てて行くために嘘を云ったのです」
「……………」
女は涙ぐんだらしくうなだれた。ストーン氏は得たりとばかり身を乗り出した。
「……ははは……わかりましたか。欺されている事……」
「……………」
「ジョージはマダム・セガンチニと夫婦になるために逃げたのです。……あははは……帰って調べて見ればわかります。それに違いありませぬ」
「……………」
「……あははは……何もかもノンセンスです。……わかりますか……ノンセンス……欺されている事……」
女はうなだれたまま唇をわななかした。蚊《か》の泣くような細い声で云った。
「……欺されても構いませぬ。嬢次様のおためなら……」
「……そ……そんな……ノンセンス……」
とストーン氏は急に真剣になって片手をあげた。
「……貴女《あなた》は大変な損をします……貴女はたった一人ここに居りますか……たった一人約束守って……」
「……守ります……死ぬまで守ります」
と云ううちに長い袖をかい探って顔に当てた。
ストーン氏は憮然として椅子に反《そ》りかえりつつ長大息した。
窓の外で私も人知れず長大息させられた。
この女は最前からかなりの嘘言《うそ》を吐いている。けれどもその嘘言《うそ》は皆、真実を材料《たね》にしたもので、ただ私がこの女の叔父であるという事と、馬に毒を嘗《な》めさせたのを少年の所為《せい》にしている事と、この二つのために全部が嘘に聞えているので、実は皆ありのままを述べているとしか考えられないのである。「真実ばかりの嘘」というものがもしあるとすれば、この女の今まで云った言葉は正にそれで、特に最後の思い詰まった哀傷の涙に至っては正に「真実中の真実」であろう。
怪少年呉井嬢次の怪手腕が、これ程に凄いものがあろうとは流石《さすが》の私も今の今まで知らなかった。愈々《いよいよ》出でていよいよ奇怪とは真にこの事である。察するところ、彼は私に施したと同様の手段……その美貌……その明智……その真実らしい態度で、どこの者とも知れぬこの女を説き付けて、その仕事の手助けに使ったものと見える。彼の辣腕は一方にこの老骨狭山九郎太を手玉に取りながら、一方には花のような無垢《むく》の美少女を、傀儡《あやつり》のように自由自在に操っている。何という大胆さであろう。何という狡猾さであろう。あの大学生が……曲馬場で老人と馬の話をしてジョージ・クレイの技術を賞め千切《ちぎ》っていた……あれが本物のジョージ・クレイであったか。鼻を低くし、頬を痩せさせ、年齢を増して、声や背丈までも別人のように高くし得る変装術がこの世にあろうとは思われぬ。あの大学生が呉井嬢次ならば、今までの彼の身体《からだ》は消滅して、心だけがあの大学生に乗り移ったものと思うより他に考えようはないであろう。私は唖然たらざるを得なかった。
しかしストーン氏はそ
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