んな事は知らない。唯この驚く程聡明で、呆れるほど無鉄砲で、手のつけられぬ程純情な、芸術家肌の美少女が、唯一筋の恋の糸に操られて、自分達に云い知れぬ大きな迫害を加えつつ、その当の相手の前に坐って、平気ですらすら事実を告白している事実を知っているだけであった。ストーン氏は最早《もう》、この女に何の罪もない事を悟ったらしい。そうして愛のために盲目になって、常識を失っているこの女に対して、却《かえ》って云い知れぬ憐れみの情を動かしたらしく、今までよりも亦、ずっと砕けた、親し気な風付《ふうつ》きに変った。そうして卓子《テーブル》に半身を凭《もた》せて、両手で手紙を弄びながら、更に女に向って言葉をかけた。その顔付きには今までの悪感情は影も形もなく、その音調にはヤンキー一流の平民的な、朗かな真情がみちみちていた。
「……お嬢さん。貴女《あなた》は大変賢い人です。大変に美しい心を持った人です。女神のような人です。貴女のような人初めて見ました。貴女のような人|亜米利加《アメリカ》に居りません。貴女のような恋する人は亜米利加に居りません。……けれども貴女は悪魔に欺されました。そうして私に悪い事しました。しかし私は憤《おこ》りません。貴女は知らないのですから。警察にも云いません。安心して下さい。
私はジョージに棄てられた貴女お気の毒に思います。私は貴女を助けて上げたいと思います。私貴女の叔父様ミスタ・サヤマに話して亜米利加に連れて行ってあげる事出来ます。私の親友の米国大使にお世話させます。亜米利加第一の金持、政治家|皆《みな》私の友達です。皆貴女のお世話させます。亜米利加の美術世界一です。亜米利加の音楽世界一です。亜米利加の流行世界一です。活動写真《ムービー》、レヴュー、芝居皆世界一です。そんなもの皆貴女のものにして上げます。けれどもジョージの事忘れなければいけません。ジョージに欺された事口惜しいと思わなければいけません。ジョージとジョージの新しい女に讐敵《かたき》を打たなければ駄目です。私が手伝って上げます。
あの悪少年《ラスカル》は恐ろしい毒蛇《コブラ》です。人を欺して血を吸います。あれは魔神《デビル》が化けた豹《ひょう》です。どこに居るかわかりません。けれどもどこからか出て来て悪い事をします。あの悪少年《ラスカル》は南部亜米利加《サウザンアメリカ》に来れば石油を掛けて焼かれます。そんなにジョージは悪い人です。貴女《あなた》を本当に愛しているのではありません。
貴女は愛《ラブ》のためにジョージが入り用でした。けれどもジョージは悪い仕事をするために貴女が入り用だったのです。貴女を使ってミスタ・サヤマを困らせて、おしまいにミスタ・サヤマを欺して、遠い処へ逃げるために貴女を欺したのです。
貴女は最早《もう》ジョージの事を忘れなければいけませぬ。ジョージより他に貴女を幸福にする者沢山居ります。わかりましたか……」
ストーン氏の説教は子供を賺《すか》すように親切であった。その眼は人種の区別を忘れた友情に輝き、その口元は熱誠のために微かに震えて、自分の心持をどうしたら相手の胸の中に注《つ》ぎ込もうかと苦心しているようであった。
すべて男がこうした態度を執る時……殊にストーン氏のような男らしい風采と、溢るるばかりの野性的な元気に充ち満ちた男性が、このような敬意と熱誠を示す時、相手の女性は最も甚だしく心を掻き乱され、引き付けられるものである。けれども彼女は何等の感動をも受けた模様はなかった。最初の通りの固くるしい姿勢に返って、膝の上のハンカチを凝視《みつめ》ているきりであった。
この体《てい》を見ていたストーン氏は、やがて駄目だという風に椅子に背を凭《も》たして、残り惜しそうに女を見つつ、そっと眼を閉じて眉を寄せた。
その時にストーン氏の背後にかかっている柱時計が余韻の深い幽玄な音を立てて、ゆっくりと時を報じ初めた……一ツ……二ツ……三ツ……四ツ……五ツ……六ツ……七ツ……。
……八ツの音を聞くとストーン氏は驚いたように眼を挙げて時計を見た。そうして少し慌てたように胴着から太い白金の懐中時計を出して見たが、落ち着いてそれを仕舞い込んで、最初の礼儀正しい紳士の態度に帰りつつ口を啓《ひら》いた。
「……お嬢様……私はもう帰らなければなりません。けれどもまだ一つ、貴女《あなた》にお尋ねしたい事があります」
「はい。何なりと……」
女の返事は何だか男のように響いた程、明晰であった。屹《きっ》と顔を上げて相手を見た。ストーン氏はその顔をしげしげと見ていたが、やがて、事務的な……しかし極めて丁寧な口調で問うた。
「ジョージ……さんは貴女に、この室《へや》を飾るわけを話しませんでしたでしょか」
「はい。申しました」
「何のためにですか」
「嬢次様は今日の
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