いろう》の働きをするのだぞ……そうして徹底的にやっつけるのだぞ……と改めて自分自身に云い聞かすように考えながら、もう一度腰のポケットを撫でてみた。全く、これ程のものを相手にしたのは今度が初めてである。従ってこれ程に精神が緊張したこともまだ曾《かつ》てない。どんな難事件に出会っても、どんな強敵を相手にしても、綽々《しゃくしゃく》として余裕を保っていた私の精神は……身体《からだ》はギリギリと引き締まって、ちょっと触《さわ》っても跳ね上る位になっていた。
併《しか》し表面は飽くまでも平静を装うていた。今の電車から降りた官吏や、学生や、労働者らしいものが十二三人急いで行くのに混じって、悠々と大胯《おおまた》に踏切を越えた。平生よりももっと当り前の(もしそんな状態があり得るとすれば)歩きぶりで自分の家の門まで来た。
見ると出がけに確かに閂《かんのき》を入れて南京《ナンキン》錠を卸しておいた筈の青ペンキ塗りの門の扉が左右に開いて、そこから見える玄関の向って左の一間四方ばかりの肘掛《ひじかけ》窓からは、百燭ぐらいの蒼白い電燈が、煌々《こうこう》と輝き出している。
……おや……と思って私は立ち止まった。
その窓には非常に綿密なドローン・ウォークを施した、高価なものらしい白麻の窓掛《カーテン》が懸かって、一面に眩《まぶ》しいハレーションを放射している。私の家は殺風景な青ペンキ塗りの板壁で、あんな贅沢な窓掛とは調和しない。この上に今は二月の末で、白い窓掛は明かに時候外れである。その向う側で、電話にかかっているらしい話声が聞えるが、程遠い上に、硝子《ガラス》窓に遮られているのでよく聞えない。
私は暫く門の処に石像のように突立っていた。百燭の青電球に照し出された白い窓掛と、その光りを反射して雪のように輝いている庭の茂みを見まわしていた。庭の隅々や、家の向う側に隠れている人の気配が感じられはしまいかと、眼を凝らし、耳を澄ましていた。しかし、そこいら中はひっそりかんとしていて、そんな気配はちっとも感じられなかった。
私は自分の家ながら、敵の住家を見るような気持ちがした。何かしら想像以上のものが……もしくは私の神経以上の敏感なものが待ち構えているようで、容易に門の中へ這入れなかった。況《ま》して窓の中を覗くのはこの上もない冒険で、白い光りの幕を背景にした私の影法師を、道沿いの電車の音に紛れて狙い撃ちにするのは訳ない事であった。
電車が二つばかり轟々《ごうごう》と音を立てて私の背後《うしろ》の線路を横切った。ユーカリの枯葉が一二枚、暗《やみ》の空から舞い落ちて微かな音を立てた。
その音を聞くと、急に私は自分の臆病さに気付いて可笑《おか》しくなった。
二十何年間の探偵生活に鍛え上げられた自分の神経を思い出しつつ人通りの絶えたのを幸いに抜き足さし足窓の所に近付いた。ちょうど窓の右手の処にこんもりした椿の樹が立っていて、暗《やみ》の中に赤い花を着けている。その蔭に身を寄せて、窓の隅に映っている丸い影法師……それは卓上電話の頭であった……の中央にあるドローン・ウォークの編み目から内部を覗いた。
すぐに室《へや》の中の様子がすっかり変っているのに気が付いた。つい五六時間前に、少年嬢次と話をした時まで、樅《もみ》の板壁に松天井、古机に破れ椅子というみすぼらしい書斎の面影は跡型《あとかた》もなくなっている。
四方の壁は印度更紗《インドさらさ》模様を浮かしたチョコレート色の壁紙で貼り詰めてある。天井には雲母刷《うんもず》り極上の模様紙が一等船室のように輝いている。床には毒悪な花模様を織り出した支那産の絨毯が一面に敷き詰めてあるし、窓に近い壁際の大机と室の真中の丸|卓子《テーブル》には深緑色のクロス。又、その丸|卓子《テーブル》を中にして差し向いに据えられた肘掛椅子と安楽椅子には小紋|縮緬《ちりめん》のカヴァーがフックリと掛けられている。
そのほか窓際の小卓子《テーブル》の上に載っている卓上電話機の左手の大机の上に、得意然と輝いている卓上電燈の切子笠。その横に整然と排列されている新しい卓上書架。その上に並んだ金文字のクロス。凝った木製のペン架け。銅製のインキ壺。それから真中の丸|卓子《テーブル》の上に並んでいる舶来最上の骨灰焼《こっぱいや》きらしい赤絵の珈琲《コーヒー》機。銀製の葉巻皿と灰落し。……いずれを見ても成金《なりきん》華族の応接間をそのまま俗悪な品物ばかりである。
ところでその中にも、この強烈な配合を作っている飾付けの全部を支配して、室《へや》中の気分を一層強く引き締めているものが三つある。その一つは正面の壁に架けてある六号型マホガニーの額縁で、中には油絵の裸体美人が一人突立って、両手を頭の上に組んで向う向きに立って草原の涯《はて》に浮かむ
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