て五分も隙《すき》のない精力的な物腰である。
表を返すと一枚目から五枚目まで番号が打ってあって細かい英文字が書き聯《つら》ねてあったが、よく見るとそれは何でもない。処々に英語を交ぜた、日本語の羅馬綴《ローマつづり》であった。
午後三時四十分
大正九年二月二十八日 馬場先の柳の下にて認《したた》む
呉井嬢次[#地付き、地より3字アキ]
狭山九郎太様[#中文字]
先程は御心配かけました。あの時間の間違いはマネージャーの命令を、出演者が聞き違えたのでした。しかし詳しい事は申開きをしている隙《ひま》がありませぬ。
私は貴方の御生命が危険だと思います。
警視庁では私服を沢山出して曲馬場を取り巻いております。これは私があの父の遺言書を藤波弁護士にお眼にかけたためです。藤波さんが外務省と警視庁とを一緒に動かされたものと思います。
けれども団長のバード・ストーンはまだ曲馬団が、警視庁に疑われていることを知らないようです。きょう団長は馬が騒ぎ出す前に、ハドルスキーと、こんな打合せをしておりましたから……。
「……ジョージが逃げたのはもしや曲馬団の秘密を知って逃げたのでないかと思うから万一の用心に横浜へ行って、いつでも逃げられるように準備しておく。見物にはジョージを探しに行くように発表させておけ。夕方五時か六時までに変った事がなかったら電話をかけろ。俺はジョージの事にかこつけて狭山をやっつけに行く。あの男が居る間は安心して仕事が出来ない。アリバイは横浜にちゃんとこしらえておくから心配するな。狭山さえ殺せば、あとはアリバイなぞ作らなくともいいようなものだけど……」
とそう言っておりました。
狭山さん。大変勝手なお願いですが、今から四時間のあいだ(九時ごろまで)済みませぬが、柏木のお宅へお帰りにならないようにして下さい。そうして私ともう一人の相棒と二人の手でバード・ストーンを取っちめさして下さい。両親の仇《かたき》を討たして下さい。もし途中でお帰りになるような事がありますと、私たち二人の生命《せいめい》ばかりでなく貴方のお生命《いのち》までも危なくなりました上に、肝腎の団長までも取り逃がすような事になるかも知れないと思います。
時間がありませぬから、これだけの事をきれぎれに申上げてお別れを致します。
貴方の御親切は私の生命です。再びお眼にかかってお礼申上げる機会がないかも知れませぬ事を悲しく思います。
お身体《からだ》を大切に願います。
――さようなら――[#地付き、地より3字アキ]
読み終ると私は絵葉書をぽんとたたいた。
……これだ。これが彼奴《あいつ》等のトリックなんだ。俺の第六感はこの通り全部的中しているのだ。
……よろしい……紫のハンカチはたしかに受取ったぞ。その代りに白い眼かくしを送ってやるぞ。
……しかし貴方の御親切が私の生命はよかったな。全くその通りだ。アハハだ。
……もう一人の相棒も洒落《しゃれ》てるぞ。情婦と書かないところがしおらしいぞ……ははん……。
こんな事をつぶやくともなく冷笑した私は、反射鏡《バック・ミラー》越しに運転手をちらりと見て、車内照明《ルーム》を消さした。
自動車はもう、日比谷公園の中から虎の門を横筋かいに、溜池《ためいけ》の通《とおり》を突き抜けている。何の事件か知らないが豆を撒《ま》いたように街路を狂奔する号外売を、追い散らす間もなくすり抜けすり抜けして赤坂見附の真中に片手を揚げている交通巡査をちらりと見残したまま一気に東宮離宮横の坂を飛び上った。
その時に私はふと思い出して、腰のポケットを撫でてみたが、そこにはT型七連発のブローニングがちゃんと納まっていた。小型ではあるが新火薬の尖弾で、二百|米突《メートル》以上利く凄いものである。
自動車は一度もストップを喰わずに新宿駅に着いた。
[#改丁]
下巻
[#改頁]
まだ月が出ない。
暗い掘割りの底の遠く遠くに小さなイルミネーションのような中野駅が見える。
今乗って来た山の手電車は、蒼白いスパークをレイルに反射させながら、その方向へ一直線に、小さく小さく吸い寄せられて行った。
暗い掘割りの一町ばかり向うに、黒い木橋《もっきょう》が架かっている。その左手には高い火の見|梯子《ばしご》が見える。それと向い合って、木橋の右手の坂下には、私の家の門口にある高さ三丈ばかりのユーカリの樹が梢《こずえ》を傾けているが、その上空には無数の星が明日《あす》の霜を予告するように羅列している。冬のおわりの最も澄み切った、厳粛な夜である。
私は急に気分が引き締って来るのを感じた。一事、一物も見逃してはならないぞ……後で笑われるような軽卒な事をするまいぞ……死生を超越した八面|玲瓏《れ
前へ
次へ
全118ページ中83ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング