朝の雲を見ている。構図は頗《すこぶ》る平凡であるが、筆者は評判の美人画家青山|馨《かおる》氏だけに、頗る婉麗《えんれい》な肉感的なもので、同氏がこの頃急に売り出した理由が一眼でうなずかれる代物である。その次は、これも正面の壁の左上に架かった金色|燦爛《さんらん》たる柱時計である。蛇紋石《じゃもんせき》を刻み込んだ黄金の屋根に黄金の柱で希臘《ギリシャ》風の神殿を象《かたど》り、柱の間を分厚いフリント硝子《ガラス》で張り詰めた奥には、七宝細工の文字板と、指針があって、その下の白大理石の床の上には水銀を並々と湛えたデアボロ型の硝子《ガラス》振子が悠々閑々と廻転している。
 それからもう一つは、大机の書架の前に置かれた紫檀《したん》の小机の上に置かれた白い頭蓋骨である。この髑髏《どくろ》は多分標本屋から買って来たものであろうが、前の二品ほどの価格はないにきまっている。けれどもその黒い左右の眼窩《がんか》が、右正面の裸体美人の画像を睨み付けて、室《へや》中に一種|悽愴《せいそう》たる気分を漲《みなぎ》らしている魔力に至っては他の二つのものの及ぶところでない。否……彼《か》の裸体美人も黄金の神殿型の時計も、この頭蓋骨の凹んだ眼に白眼《にら》まれて、初めて、これだけの深刻な気分を出し得たものと考うべきであろう。どんな気の強い人間でも、この室《へや》に暫く居たならばきっとこの神秘的なような俗悪なような、変てこな気分に影響されずにはいられないであろうと思われるくらいである。
 しかし生れつき皮肉な私の眼は、こんな風にしてこの室《へや》の変化に驚きながらも、この時既に、凡《すべ》ての飾り付けの中に多くの胡麻化《ごまか》しがある事を発見していた。
 たった今気がついた左右の出入口の、褐色ゴブラン織りの垂れ幕は、青ペンキ塗りの粗末な扉《ドア》を隠すためである。壁際の大机は今まであったものだが、室《へや》の真中の丸|卓子《テーブル》も、私が実験室で使っていた顕微鏡台ではないか。
 卓上電燈も笠こそ変っておれ、私が六七年前に古道具屋から提げて来たもので、百燭の青電球も実験室備え付のものに相違ない。本立や書物も同様で、椅子に至ってはただ縮緬の蔽いが……しかも寸法の合わないものが掛かっているだけで、中味は昔のままの剥げちょろけた古物に違いないのである。只そんなものが、色々の贅沢な装飾品で、如何にも巧みに釣合を取られているからちょっと気が付かないので、そのためにこれだけは昔のまま、室《へや》の隅に置いてある火の気のない瓦斯《ガス》ストーブまでも引っ立って、勿体らしいものに見えているに過ぎないのである。
 その室《へや》のまん中の丸|卓子《テーブル》の上に唯一つ上を向いた赤絵の珈琲茶碗には、銀の匙《さじ》と角砂糖が添えられて、細い糸のような湯気が仄《ほの》かに立ち昇っている。そのこちら側の肘掛椅子に、最前の女優髷の女が被布を脱いで、小米桜《こごめざくら》を裾模様した華やかな錦紗縮緬《きんしゃちりめん》の振袖と古代更紗《こだいさらさ》の帯とを見せながら向うむきに腰をかけている。どこかの着附屋の手にかかったらしく、腋の下がきりきりと詰まって素敵ないい恰好である。ガーゼと色眼鏡は外しているが電燈の光りを背後《うしろ》にしているために、暗い横顔だけしかわからない。
 その向い側の美人画を背後《うしろ》にした椅子には、最前絵葉書で見たバード・ストーン氏が、写真の通りの服装で腰をかけている。只胸に薔薇《ばら》の花が挿してないばかりである。氏は写真よりも五つ六つ年を取った四十五六に見える男盛りで、顔面の表情は写真よりもずっと厳《いか》めしい。殊にその四角い額の中央に横わった一本の太い皺《しわ》と、高く怒《いか》った鼻と、大きく締った唇と、頑丈にしゃくった顎とは意志の強い、大胆な、どんな事でも後には引かぬという性格をあらわしているようで、その切れ目の長い眼の底には、獅子《しし》でも睨み殺す光りが籠もっているように見える。
 女は十年も前からこの家に居る……という風に落ち着いて、澄まし込んでいるが、ストーン氏の方は困ったという顔付で、両腕を組んで、眼を半眼に開いてへの字口をしている。のみならず氏はたった今この家に来たものらしく、百燭の電燈に真向きに照されたその顔は、急いだためか、真赤になっていて、広い四角い額には湯気の立つ程、汗が浸《し》み出している。
 白い窓掛けの理由がやっと判明《わか》った。女は百燭の電光と、白麻の窓掛けの強烈な反射で、相手の眼を眩《くら》まそうとしているのだ。
 私はこの驚くべき事実に対して眼を瞠《みは》らない訳に行かなかった。
 二人は赤の他人なのだ。他人も他人、全くの初対面で、しかも女は何かしらバード・ストーン氏に対して敵意を持っているのをバード・スト
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