らと往来にさまよい出たに過ぎなかった。
 ところがその最中《さなか》にも、その私の空っぽのあたまを決定的に支配し指導しつつ、絶えず重大な暗示を与え続けていた、神秘的なあるもの[#「あるもの」に傍点]があった。そのあるもの[#「あるもの」に傍点]の洞察力は透徹そのものであった。そのあるもの[#「あるもの」に傍点]の記憶は正確そのものであった。そのあるもの[#「あるもの」に傍点]の暗示は霊妙そのものであった。そのあるもの[#「あるもの」に傍点]……すなわち私の第六感はがんがらがんのふらふら状態に陥っている私の全部を支配して、いつの間にか二年|前《ぜん》に志村氏が変死したステーション・ホテルの前に行かせた。それから二年|前《ぜん》に私が履《ふ》んで来た通りの道筋を、知らず識《し》らずの中《うち》に間違いなく繰り返して辿らせて、カフェー・ユートピアまで連れて来て、その二年|前《ぜん》にたった一度しか腰をかけた事のない窓際の椅子にちゃんと腰をかけさせてその上に……志村浩太郎氏が、その死の数時間|前《ぜん》に誂《あつら》えた通りの四種の料理を、無意識の裡に註文さした。
 ……お前はもうじきに死刑の宣告を受けるのだぞ……。一人の美しい女から紫のハンカチを貰うのだぞ……。
 ……と明白に予言したではないか。
 何という不可思議な作用であろう。
 何という適切な暗示であろう。
 もし私がこの時に、かような偉大な力の存在を知らないで、唯こうした事実だけを気付いたならば、恐らく奇蹟としか思わなかったであろう。又、もし私が信仰家であって、これだけの暗示を受けたならば、直ぐに上天の啓示と信じて、掌《て》を合わせて謝恩の祈祷を捧げたであろう。
 しかし、これは上天の啓示でも何でもない。人間の持っている偉大な……忘れられた能力の作用である。
 ……と……こう気が付くと同時に、私は椅子を蹴って立ち上ったのであった。そうしてその一瞬間に、二年|前《ぜん》から引き続いて来たこの奇怪なJ・I・C事件に対する私の判断を、どん底から引っくり返してしまったのであった。
 ……私はすっかり欺されていた。ただ私の「第六感」だけが欺されなかった……
 と気付いたので……。
 しかも、その私がその「第六感」の暗示を基礎にして、ドンデン返しに建て直してみた事件の真相の如何に恐ろしかった事よ……。
 見よ。
 ――事件の発端となっている志村浩太郎氏の変死は、私の判断も、又は嬢次少年の説明も超越した一種特別の変死である事が、考えられて来るではないか。志村浩太郎は私の第一印象の通りに、その妻の志村のぶ子に殺されたものであるのみならず、二年後の今日《こんにち》に至るまで私を迷わせ、妄動させて、私の生命までも飜弄すべく屍体を仮装させられたもの……という可能性が生れて来るではないか。
 志村のぶ子はJ・I・Cのために現在の夫も殺して、世にも奇怪な死状を装わせて、あのような真に迫った手紙や遺書を残して、まんまと首尾よく私を欺し了《おお》せる一方に、事情を知っている鮮人朴を射殺しながら、情夫の樫尾と共にどこへか姿を晦《くら》ました稀代《きだい》の毒婦であった……という事実が、志村氏の死体のポケットにあった紫のハンカチによって暗示されていた事になるではないか。……志村氏を脅迫した聖書によって裏書されている事になるではないか。
 しかもこの事実を肯定すると、それに連れて、今日私が曲馬場で死ぬ程心配させられた裏面の魂胆も、容易《たやす》く、明白に解決されて来る。
「大馬と小犬」の喜劇が、嬢次少年の予告した時間よりもずっと早く済んだ。そのために馬の舞踏会の開始時間が繰り上げられて、ちょうど舞踏の真最中に馬が暴れ出す事になった。これは嬢次少年の過失か、私の聞き誤りか、それとも何かの手違いかと思っていたが、それはいずれも大勘違いの勘五郎であった。私の第六感の暗示を基礎として判断して行くと、少年はカルロ・ナイン嬢と、女優髷の女を一味とする、J・I・Cの一団と十分の協議を遂げて、私に「四十分|乃至《ないし》二十分」の時間を告げたのであった。そうして私をあの曲馬場に引っぱり出して、われと自分の手で作り出させた危機一髪の情景に、われと自分を狂い出させて、そのドサクサに紛れて私を、兇猛なハドルスキーの手にかけて始末させようとした。……けれども、その第一の手段が失敗に終ったと見るや否や、第二の手段として、あの女優髷の女に私を殺させるべく、紫のハンカチを手渡しさせた……二年前の志村のぶ子と同じ役目を受け持たせた……という計画の辻褄《つじつま》がすっかり合って来るではないか。
 すべては虚構《うそ》であった。一切は芝居であった。そうして全部は私の敵に外ならなかった。
 彼等……紫のハンカチを相印《シムボル》とする、J・I・
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