志村のぶ子を聯想させられた事……なぞも勿論、私にとって大切な判断の材料でなければならなかったが、まだこの外にも私の「第六感」は幾多の重要な発見をして次から次に私の脳髄の判断活躍を催促していたのであった。
 ……カルロ・ナイン嬢が乗馬に深い経験を持っていないこと……。
 ……ハドルスキーがいつも嬢の直ぐ後方《うしろ》に馬を立てて、恰《あたか》も嬢を監視しているかのように見えた事……。
 ……そのハドルスキーとカルロ・ナイン嬢とが場内を廻りながら馬上から私をちらりと見た事……等、等、等。
 その他色々と注意すべき点が沢山あったように思うが、その中でも亦、取りわけて重大な意味を含んだ暗示がたった一つあった。それは、すべての暗示材料を一貫して……曲馬団……女優髷……ジョージ・クレイ……志村夫婦……魚目《ぎょもく》と木精《メチール》の毒薬……ピストル……J・I・Cなどいうものの一切合財の裏面の消息を一言で説明している紫のハンカチであった。
 ……カルロ・ナイン嬢が持っていた紫のハンカチ……。
 ……女優髷の女が持っていた紫のハンカチ……。
 ……そうして二年前、志村のぶ子が持っていた紫のハンカチ……。
 ……同じ大きさの同じ色のもの……。
 私はどうしてこれに気付かなかったのであろう……この三人の間にはちゃんとした脈絡のある事を紫のハンカチが遺憾なく証明しているではないか。仮りに志村のぶ子が死んでいるとしても、カルロ・ナイン嬢は私の前で紫のハンカチを振って行ったではないか。私の真背後《まうしろ》に居る女優髷の女に見せるために……。何かの合図をするために……。
 こうした事実が確定して来るとカルロ・ナイン嬢が、私の顔を見て行ったように思われた理由も判明する。カルロ・ナイン嬢は、私を見て行ったのでなくて、私のすぐ背後《うしろ》に居る女優髷の女を見て行ったのだ。二人の女は紫のハンカチでもって何かの意味を通信し合って行ったのだ。
 然らばその通信し合った意味とはどんな意味か……。
 これも私の「第六感」がハッキリと暗示している。私が註文した四種の料理によって、説明し過ぎるほど明瞭に説明している。
 ……紫のハンカチを受取ったものは殺されなければならぬ。
 ……と……。
 何という恐ろしい暗示であろう。
 そうして又、何という明瞭な宣告であろう。
 二年前に志村のぶ子から紫のハンカチを受け取った志村浩太郎氏は、その夜のうちに奇怪な変死を遂げたではないか。今から考えると、志村浩太郎氏の死状は、私の判断も、呉井嬢次の説明も超越した、恐ろしい死に方であったのだ。
 そうして現在の私も、紫のハンカチを、J・I・Cと関係のあるらしい美しい女から渡されて、死の暗示を与えられているではないか。二年前の志村氏と同様の不可思議な「死の運命」の方向へ、ぐんぐんと惹き付けられて行きつつあるではないか。
 ……私がJ・I・Cに殺されなければならぬ理由は数え上げるだけ野暮《やぼ》であろう。私が二年前に、前総監の許可を得て、M男爵から内密に借り受けた名簿によって日本内地に散在するJ・I・C団員を虱潰《しらみつぶ》しに投獄し、又は国外に放逐した事実は、微塵《みじん》も外《ほか》へ洩れていないにしても、最少限J・I・Cの連中の記憶には骨の髄まで徹底している筈である。さもなくとも私が辞職の直前に、現警視総監と大声で云い争った、その半言隻句でも外に洩れたとすれば、それだけで十分である。況《いわん》や私の眼の球の黒いうちはJ・I・Cの影法師でも二重橋橋下に近づけない覚悟でいる事が、万に一つでもJ・I・Cに伝わったとしたらどうであろう。
 否々《いやいや》。彼等はもうとっくの昔に私のこうした決心を感付いている筈である。そうして私を第一番に片付けてから、第二第三の仕事にかかる予定にしていなければならぬ筈である。そうして彼等はこの目的の下に、生命《いのち》知らずの無頼漢をすぐり集めて、曲馬団を組織して捲土重来《けんどちょうらい》したものに違いないのである。これは決して私の自惚《うぬぼ》れや何かで云うのではない。
 然るに私は最前嬢次少年に会ってから後《のち》というものはこんな考えから全然遠ざかっていた。自分の一身に関する危険なぞは変にも考えずに、ただ漫然と様子を見る位の考えで見物に来ていた。そうして嬢次少年の仕事を手伝うこと以外に何等の緊張も、危険も感じないまま双眼鏡をひねくりまわしているに過ぎなかった。そうして思いもかけぬ大失敗をして徹底的にたたき付けられたまま曲馬場を出て来たのであった。
 その時の私の頭の中は、自分自身がどこに居るのか、判断出来ないくらい混乱していた。常識とか理智とかいうものは跡型《あとかた》もなくノック・アウトされた空《から》っぽ同然のあたまを肩の上に乗せて、ふらふ
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