号令をかけられた軍隊のように整然としている気持ちよさとを、心ゆくまで感じていた。その時に誰か私の前に近づいて来るように思ったから、何気なく眼を開《あ》いて見ると、それは一人のボーイであった。
 ところでそのボーイが差出した紫色の包みを受取って、中味を検《あらた》めようとした時に、その包んだ風呂敷が、紫色の絹ハンカチである事に気付くと同時に、私ははっとさせられた。そうして今日じゅうの出来事……否、二年前の東京駅ホテル殺人事件以来の出来事の裏面に潜む、想像を超越した奇怪な出来事が、一時に解決されかかったように思いつつ、眼の前に並んだ四枚の皿を見まわした。
 それから私は立ち上って出て行きがけに、念のため私が自分で註文した食事が、黒|麺麭《パン》とスープとハムエッグスと、ウイスキーを入れた珈琲《コーヒー》の四皿に相違なかったかどうかをボーイに問い確かめてみると、ボーイはその通りですとハッキリ答えた。その時に私は一切の秘密を明かにする裏面の真相が電光のように私の頭に閃めき込むのを感じたのであった。
 私の第六感の作用のすばらしさをハッキリと感じたのであった。
 読者は記憶しておられるであろう。
 去る大正七年十月十四日の朝、東京駅ホテル第十四号室で起った岩形圭吾氏こと、志村浩太郎氏の変死事件を探るために、私はその朝の午前十一時頃カフェー・ユートピアへ来た。そこで一冊の聖書を見付けて、その聖書によって志村氏と、その妻のぶ子がJ・I・Cに関係している事実を発見したことを……。
 ……ところでその時に私が坐っていた卓子《テーブル》は、確かに最前坐っていたのと同じ卓子《テーブル》の同じ椅子で、しかも、その卓子《テーブル》が又その前夜、志村夫婦が差し向いに坐っていたその卓子《テーブル》ではなかったか。……のみならずその卓子《テーブル》に腰をかけていた志村浩太郎氏が、その妻ののぶ子から紫のハンカチを受け取る直前に、その卓子《テーブル》の上に並べていた四皿の料理は、今夜疑問の女から紫のハンカチを受け取る前に並べていた四皿の料理と、そっくりそのままの……黒麺麭と、スープと、ハムエッグスとウイスキー入りの珈琲ではなかったか。
 ……今の世に奇蹟はない。
 ……偶然としては余りに偶然過ぎる。
 しかもこの奇蹟的な偶然を、私の第六感の作用として判断すると、一切の疑問の闇を貫く一道の光明が、サーチライトのようにありありと現われて来るではないか。
 あの時に発見した聖書は、今も警視庁の参考品室の片隅にある、暗号の部と書いた硝子《ガラス》戸棚の中に投《ほう》り込まれたままになっている。たしか二〇一番の札《ふだ》を貼られたまま塵埃《ほこり》に包まれている筈である。
 私も、今朝《けさ》の中《うち》迄はすっかりあの事件を忘れてしまっていた。何もかも忘れて、余生を自然科学の研究に没頭して送るべく、これから追々と買入れねばならぬ器械と、薬と、書物の事ばかり考えていた。
 ところが今日の午後になって、嬢次少年の訪問を受けると又も、新《あらた》にその時の記憶を喚び起したのみならず、その問題の曲馬団の興行を見物に来て、カルロ・ナイン嬢の美しい姿を見て、どこかの華族様の令嬢ではないかと思ったりした。又、自分の直ぐ背後《うしろ》に坐っている女優|髷《まげ》の女を見ると、もしや志村のぶ子ではあるまいか……なぞと途方もない事を考えたりした。そのおかげであべこべに女から不良老年と見られて逃げられてしまったが、その時に私は、変な日だなと思った。今日は自分の頭が余程どうかしていると思った。そのほかにも未《ま》だ二つ三つ変だな……と思った事があったが、先の用事に気を取られて、次から次に忘れて行った。おまけに時間の間違いで、大勢の女が舞踏の最中に、馬に蹴殺されそうになった心配の余りに、頭がすっかり混乱してしまって、茫然恍惚とした夢うつつの境をさまよいながら、どこをどう歩いているか解らないまんまにカフェー・ユートピアに来てしまったのである。曲馬団が真赤な偽物である直接の証拠を一つも発見し得ないまま……嬢次少年の復讐を手伝うべき準備偵察も何も出来ないまま……そうして団員のどれもこれもが、皆本物の曲馬師で、素晴らしい腕前を持っているらしいのに感心させられたまま……平生《いつも》の理智と判断力とをめちゃめちゃにたたき付けられて終《しま》いかけていたのである。
 ところが私の「第六感」はそんな甘い事では承知しなかった。それ以上の……殆んど私の生命《いのち》にも拘る或る大きな秘密を掴もうと努力していたのであった。
 あとから考えると私の「第六感」はあの時に色々な材料を提供して、私の判断力の活躍を催促していた。前に述べたカルロ・ナイン嬢が貴族的な……寧ろ皇族的な気品を備えていた事……女優髷の女を見るとすぐに
前へ 次へ
全118ページ中79ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング