葉を口にしないようである。しかも女がこんな事を云い出す時は、大抵日当りのいい障子《しょうじ》の側で、静かに縫い物か何かしている時で、ばたばたと忙《せわ》しく働いている時は余り云わぬ。ところで誰でも知っている通り女が縫い物をする時は、眼を絶え間なく小さな針の先に注いでいるために、気持ちが平生《ふだん》よりもずっと澄み切っていて、只いろいろと取り止めもない夢のような事を考えている。つまり女の頭の中には、平生《いつも》の常識的な、理窟ばった考えは微塵《みじん》もなくなって、人間世界を遠く離れたうっとりした気持ちになっている。こんな時が第六感の最も鋭く働く時で、女はその澄み切ったあたまの中に、いつとなく一人の客人が遠くから、自分の家《うち》に向って動いて来るのを感じている。しかしそれは先から先へとめぐって行くシャボン玉より軽い、夢より淡《うす》い空想の蔭になって動いているので、女にはまだハッキリと意識されていない。……そこへぱっと黒い影が障子を横切る。女ははっと思う。夢のシャボン玉がふっと消える。その下から客人が来る……という第六感がまざまざと現われる。そこで女は思わず云う……
「あれ鳥影がさした。誰か来るような気がする」
と……。けれども女は「第六感」というものが人間にある事を知らないから、すぐに平生《いつも》の常識に立ち帰って、
「……けども家《うち》の人が今ごろ自宅《うち》に居ないのは誰でも知っている筈だ。あんまり当てにはならない」
なんかと思い消してしまう。しかし女の第六感は承知しない。矢張り何だか気になるから縫物《しごと》を止《よ》して、それとなく茶器なぞを拭いていると、思いもかけぬ人が表口から、
「御免下さい。御無沙汰しました」
と這入って来る。
「まあ。矢っ張り本当だったわよ」
と女は思う。
然《しか》らば吾々の持っている職業的な第六感の動き方はどうかというと、これとは全く正反対である。神経を磨《みが》き澄まし、精神を張り切って、眼にも見えず、耳にも聞えない或る事を考え詰めている時に電光のように閃めき出すもので、その鋭くて、早くて、確かな事はとても無線電波なぞの及ぶものでない。吾ながら驚く程沢山の事実をほんの一瞬間に感じさせたり、又は遠方で起った仕事の手違いを的確に予知させたりするものである。私はずっと前からこの種の第六感の存在を固く信じているもので、これによって重大な事件を解決した例は一つや二つでない。勿論科学的な研究や観察を基礎とした推理なぞを決して軽く見ている訳ではないが、場合によってはそんなものが全く役に立たなくなって、いくら研究して、推理して見ても、考えは唯同じ処をぐるぐる廻るばかりのみじめな状態に陥る事がある。
大抵の人間はそんな時にすっかり失望して終《しま》って、とても駄目だと諦めて終《しま》うようであるが、私は決してそれを諦めない。なおの事一心不乱になって考え続けて行く。そうすると全身の神経の作用が次第に求心的に凝《こ》り集まって、あるかないかわからない無色透明の結晶体みたようになってしまう。その時に第六感が煌々《こうこう》と、サーチライトを見るように輝き出して、事件の焦点を照し出したり、行くべき方向を示したりするから、それに依って猶予なく敏速な活動を開始する事が出来る。但し、そんな場合に何故そんな風に私が動き出して行くのかという理由は、説明しようとしても説明出来ないのだから、私は難事件になればなる程たった一人で仕事をする事になる訳である。しかもそんな場合に傍《はた》から見ていると、私の行動はまるで狂人《きちがい》のように感じられるそうであるが、その結果を見ると又、奇蹟としか思わない事が多いそうである。これは普通人ばかりでなく私と同じ仕事をしている連中でもそう感じるそうで、現にこの間私を免職した高星総監なぞも、
「君はまるで魔法使いのようだ。事件と何の関係もない事実を見付けては寄せ集めて、その中に事件の核心を発見する」
と云って舌を捲いた位である。しかし事実は不思議でも何でもない。普通人が常識の範囲内でだけしか仕事が出来ないのを私は「第六感」の範囲まで神経を高潮させて仕事をするからで、現在たった今私がカフェー・ユートピアを飛び出すと一直線に「新宿へ」と命じたのもその最適当した一例であろうと思う。
この時の私はただ「第六感」ばかりに支配されていた私であった。
初めカフェー・ユートピアでボーイが私に紫の包みを渡すべく差出した時に、私は殆んど睡りから覚めかけていた。そうして、いつの間にか不思議にがら空《あ》きになっているカフェーの片隅に、たった一人で静かに眼を閉じていると、疲れが休まった身体《からだ》の中にずんずん血がめぐって行く快よさと、頭の中の神経細胞がちゃんと秩序を回復していて気を付けの
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