……突然……大砲を連発するような響きが楽屋の方に起った。それと一緒に狂わしい馬の嘶《いなな》きと、助けを呼ぶ外国人の声とが乱れて聞えた。馬が狂い出して厩の羽目板を蹴っているのだ。
 その音を聞くと私は気の抜けた風船玉のようにぐったりとなった。
 けれども騒ぎの方は次第に烈しくなった。とうとう三十頭の馬が皆騒ぎ出したらしく、どかんどかんばりばりと板を蹴破る音、嘶く声、急を呼ぶ人々の叫びが暴風のように、又は戦争のように場内に響き渡った。その中から髪を振り乱した素跣足《はだし》の女が十人ばかり、肉襦袢ばかりの、だらしない姿のまま悲鳴をあげて場内へ逃げ込んで来た。
 これを見たハドルスキーは私を抱えたまま立ち止まって二三秒の間じっと考えているらしかったが急に私を放して巡査と人足に渡して、巧みな日本語で、
「此奴《こいつ》を逃がさないようにして下さい。罪人ですから……」
 と云い捨てたまま、他の西洋人と一緒に楽屋の方に走って行った。
 私は四人の巡査と人足にしっかりと手足を押えられたまま、気抜けしたようになって立っていたが忽ち巡査を振り放した。組み付いて来る人足を跳ね飛ばし投げ付けて、落ちた帽子を拾うが否や、ハドルスキーの後を逐うて行った。私を欺いた憎むべき悪少年、呉井嬢次を捕えるためである。
 見物は総立ちになった。吾も吾もと仕切りの柵を越えて、演技場の中に走り込んで、一時に楽屋の入口の方へ殺到した。いつ這入って来たものか四五名の巡査が手を挙げて制しているが、野次馬は益々殖えるばかり……楽屋の入口は見る間に人足と巡査と見物の群で、押すな押すなの大雑沓を極めた。
 しかし私はそんな騒ぎを後にして一直線に楽屋の中を眼がけて突進した。そうして巡査と押し合う人間の袂《たもと》の下をかいくぐって、躓《つまず》きたおれんばかりに楽屋の奥へ転がり込むと、楽屋の連中は皆、外へ逃げ出すか、馬の処へ駈け付けるかしているために、どの室《へや》も森閑と静まり返っている。
 荷物部屋らしい室《へや》の前に来ると、ここばかりは他の室《へや》と違って、壁が亜鉛《トタン》張りになっていて、やはり亜鉛《トタン》張りの頑丈な扉《ドア》が付いている。その扉《ドア》を開くと苦もなく開《あ》いたが、中に這入って扉《ドア》を締めると真暗になる。懐中電燈を点《とも》してみると嬢次少年が云った通り、向うの隅に真鍮《しんちゅう》張りの大トランクがあって表に白い文字でGEORGE・CRAYと書いてあるが、その鍵の処には、白い小さい紙布《かみきれ》が挟んであるようである。近付いてよく見ると、それは嬢次少年自身の名刺で、その裏面には鉛筆で羅馬《ローマ》綴りの走り書きにしてある。
「この中の黒い鞄は頂戴致しました。御心配かけました」

 …………………………………………………………………私はどこをどう歩いて来たのか丸で記憶しない。いつこのカフェー・ユートピアの二階へ上り込んだのか……どうして今、眼の前に並んでいる四種の料理……「豆スープ」と「黒|麺麭《パン》」と「ハムエッグス」と「珈琲《コーヒー》」を誂《あつら》えたのか……一つも頭の中に残っていなかった。
 窓の外を覗くと、往来には夕暗《ゆうやみ》の色が仄《ほの》かに漂い初《そ》めている。向家《むかい》の瓦屋根の上を行く茶色の雲に反映する光りを見ると、太陽は殆んど地平線下に沈みかけているようである。頭の上の右手には花電燈がほっかりと点《つ》いていて、周囲には大勢の客が笑いさざめいている。中には曲馬団の帰りらしい学生の一組も居て、頻《しき》りに高声で話をしている。
「……面白かったな」
「うん。あのキチガイみたいなハイカラ紳士と、ハドルスキーの活劇が素敵だった。もう五十銭出してもいい……明日《あす》も遣るんなら……」
「一円呉れりゃあ俺が遣ってやらあ……」
「遣るよ一円ぐらい……」
「ダメよ。見物がみんな呉れなくちゃア……」
「チエ……慾張ってやがら……」
「何だろうな。あの紳士は一体……」
「キチガイだよ毛唐の……英語で何だか呶鳴《どな》ってたじゃねえか」
「最初は日本語だったぜ。待てッ……とか何とか……」
「……ウン……しかし何だってあんなに呶鳴り出したんだろう。だし抜けに……」
「ジョージ・クレイの居所を知っていたんじゃねえかナ」
「……どうしてわかる……」
「そいつが三万円の懸賞を見て気が変になったんじゃねえかと思うんだが……ハハン……」
「そうかも知れねえ。だから馬が共鳴して暴れ出したんだろう……馬い話だってんで……」
「アハハハ……違《ちげ》えねえ」
「ワハハハハハハ……」
「しかし三万円は大きいじゃねえか。たった一人の小僧っ子に……」
「なあに……あれあ広告よ。毛唐はよくあんな事をして人気を呼ぶそうだから……事によると両方|狎《
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