カルロ・ナイン嬢のあとに、たった一人残っていた燕尾服の男は、一際声に力をこめて云った。
「只今御覧に入れました懸賞の広告は、既にその筋へお届けが済んでおりまして、明日《あす》の新聞紙にも掲載致す手筈に相成っておりますのを取り敢えず皆様に御報告申上げた次第でございます。内容は御覧になりまする通りで、別に御説明申上ぐる迄もございませぬから差し控えますが、これはお客様御一同に対しまする当曲馬団の責任と致しまして、一日も早く当曲馬団の花形と相成っておりますジョージ・クレイの演技を御覧に入れなければ相済まぬという考えから、かように取り計らいましたので、結局、当曲馬団が蒙りまする損害は一切勘定に入れず、唯、お客様御一同に対しまする当曲馬団の責任のみを重んじまして、かように決定致しました次第でございます。かような次第でございますから何卒お客様御一同に対しまする当曲馬団の誠意の程を御酌量賜わりまして、倍旧のお引立あらん事を伏してお願い申上ぐる次第でございます」
陳《の》べ了《おわ》った燕尾服の男は恭《うやうや》しく一礼して見物席を見まわした。けれども一人として拍手する者がなかった。これは恐らく前のカルロ・ナイン嬢の言葉と比較して、この男の説明が余りに現金的で外国式なために、見物の同情を惹かなかったのであろう。全く別の見物人のように冷淡な、反響のない群衆と化してしまっていた。
燕尾服は一寸張合抜けの体《てい》であったが、又勇を鼓して一歩踏み出して附け加えた。
「……ええ……なお一言申上げます。実は只今身支度のため楽屋へ引取りましたカルロ・ナイン嬢は、只今から演じまする馬の舞踏会には今日《こんにち》まで出演致した事は一度もないのでございますが、今日《こんにち》は特に、皆様へお詫びの心を現わしまするために、平生愛乗致しておりまするあの御承知の白馬『崑崙《こんろん》号』と共に参加致したいとの希望……」
あとの言葉は耳が潰れたかと思われる拍手の音で聞えなくなってしまった。その中《うち》に燕尾服は腰を二重に折り曲げて最敬礼をした。
……三時二十八分……あと二分……。
又一としきり大波のように拍手の音が渦巻き返った。
同時に楽屋の入口に垂れ下っている緑色の揚げ幕の中から、嚠喨《りゅうりょう》たる音楽の音《ね》が、静かに……静かに流れ出して来た…………………………………。
私の頭髪が一時に逆立った。全身の血が心臓を蹴って逆流した。思わず椅子から立ち上って絶叫した。
「待てッ…………」
……それからどうしたか記憶しない。気が付いた時にはもう広場の真中に駈け出していて、向うから走って来た最前の鬚武者《ひげむしゃ》の巨漢ハドルスキーに背後から羽がい締めにされていた。
「きちがいだきちがいだ」
「摘《つま》み出せ――ッ」
なぞ云う声が八方から聞える。巡査と西洋人と人夫らしい男が二三名走って来るのが見える。
けれども私はそんな者を相手にする隙《ひま》はなかった。それこそ本当の狂人《きちがい》のように身を藻掻きながら絶叫し続けた。
「……ここを放せ……放せ。危険だ。危険だ。次の番組をやってはいけない。馬の舞踏をやってはいかん。途中で馬が……馬が……ええっ。ここ放せ……ハドルスキー……放さぬか……ええッ……」
私の声は徒《いたず》らに空《くう》を劈《つんざ》いた。場内は空しくワーワーと湧き立った。しかしハドルスキーは平気であった。足を宙に振り舞わして暴れる私を楽々と引っかかえて、一歩楽屋の入口の方へ歩み出した。その時に今まで静かであった音楽が、急に浮き浮きしたワンステップの愉快な調子に変った。これは演技が初まった事を知らせるので、この音楽に連れて楽屋の入口から、馬と美人が入れ違いに並んで、踊りながら出て来るのであろう。
私は無言のまま、死力を尽して羽がい締めから脱け出そうとしたが無効であった。私の力量は庁内でも有名なもので、狭山は鉄の棒を曲げるとまで云われていた。鬼という綽名《あだな》も一つはそうした意味で附けられたのであるが、このハドルスキーの金剛力には遠く及ばなかった。彼は籐椅子《とういす》を一つ抱える位の力で私を締め上げている事が、明かに私の背中に感じられた。そうして自信のある柔道の手を施す術《すべ》もないうちに私の両肩は、巨大な噛締機《バイト》にかかったように痺《しび》れ上って、抵抗する力もなくなってしまったばかりでなく、肋骨がメリメリと音を立てて千切《ちぎ》れて行くような……今にも肺臓が引き裂かれて、呼吸《いき》が止まりそうな大苦痛を感じ初めたのであった。
……死ぬのだ……俺は殺されるのだ……楽屋に連れて行かれて……。
……そうした絶望的な予感が二三度頭の中に閃めいて、私の抵抗力を無理に振い起させた。私はただ力なく藻掻きまわった。
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