る隙《ひま》はない。
 場内は一寸《ちょっと》居ない間《ま》に著しく暗くなって夕暗《ゆうやみ》のような色を漂わしている。これは太陽が雲に隠れたためで、見物は水を打ったように静かだ。演技場の真中には今、中位の象かと思われる巨大な白|葦毛《あしげ》の挽馬が、手綱も鞍も何も着けずに出て来て、小さな斑《ぶち》のテリア種の犬と鼻を突き合わせて何かひそひそ話をしている体《てい》である。そこへ赤白だんだらのピエロ服を着て骸骨のように眼鼻を黒くした小男が、抜き足さし足近づいて来て、妙な腰付きをして耳に手を当てがいながら、馬と犬の内証話を聞こうとした。これを見付けた犬は急に憤《おこ》ってワンワン吠えながら道化男に噛み付こうとする。道化男は危機一髪の間《ま》に悲鳴を揚げて逃げまわる。楽隊が囃《はや》し立てる。見物はただ訳もなく笑った。
 馬と小犬は道化役者《ピエロ》を楽屋口の柱の上に追い上げると又、広場の真中に来て内証話を初める。
 私は又時計を出して睨み初めた。もう二分経っている。あと十五分……。
 道化男は又、前の失敗を二度ほど繰返した。見物席に駈け上ったり、木戸口から飛び出したりした。しまいには馬の腹の下に這入って、前足の間から二匹の内証話を聞こうとした。それを犬が素早く発見して吠え付いた。馬は棹立《さおだ》ちになった。そうして二匹とも今度は勘弁ならぬという体《てい》で逐《お》いまわし初めた。
 あと十二分……。
 道化男は馬の腹の下や、前足や後足の間を飛鳥《ひちょう》のように潜り抜けて巧みに飛び付いて来る馬と犬を引っ外《ぱず》した。見物の中に拍手の声が起った。結局道化男は逃げ場を失った苦し紛れに裸馬に飛び乗った。馬は憤《おこ》って前に飛び横に跳ね、棹立ちになったり前膝を突いたりして、一生懸命に振り落そうと藻掻《もが》いたが、道化男はいつも千番に一番の兼ね合いで踏みこたえる。拍手の音が急霰《きゅうさん》のように場内一面に湧き起った。その響きの裡《うち》に道化男は、裸馬に乗ったまま犬に吠え立てられつつ楽屋の中に駈け込んで行った。
 ……三時二十分きっかり……。
 ……あと十分間……。
 ……私の胸の動悸が急に高まった。嬢次少年が云った最少限度の二十分よりも五分以上早く演技が終ったのだ。この次の「馬上の奇術」は演技者が居ないからやらない事は明白である。
 ……あとは順序通りに行けば、幕間《まくあい》二三分乃至四五分の後に始まるであろう、馬の舞踏会である。戦慄すべき馬の舞踏……。
 ……瞬間……おそるべき幻影がまざまざと私の眼の前に描き出された。
 ……場内に数十頭の裸馬が整列する……。
 ……その間に軽羅《うすもの》を纏うた数十名の美人が立ち交《こも》って、愉快な音楽に合わせて一斉に舞踏を初める……。
 ……けれどもそれは、まだ十分と経たない中《うち》に見る見る悽惨を極めた修羅場と化する……。
 ……数十頭の馬が突然棹立ちになって狂いはじめる……。
 ……噛み付く……。
 ……蹴飛ばす……。
 ……飛びかかる……。
 ……抱き倒す……。
 ……蹂《ふ》み躙《にじ》る……。
 ……数十名の美人は悲鳴を揚げて逃げ惑いつつ片端から狂馬の蹄鉄にかかって行く……肉が裂ける……骨が砕ける……血が飛沫《しぶ》く……咆哮……怒号……絶叫……苦悶……叫喚……大叫喚……。
 ……大虐殺の見世物……。
 ……活地獄《いきじごく》のオーケストラ……。
 ……私の罪……。
 ……肝魂《きもたま》が消え失せるとはこの時の私の事であったろう。頭の中がグワーンと鳴った。眼の前に灰色の靄《もや》がズ――ウと降りて来た。立ち上ろうとしたが膝が石のように固まって動かない。叫ぼうとしたが胸が鉄より重くなって呼吸《いき》が出来ない。やっとの思いで、わななく手を額に当てたが、その額は硝子《ガラス》のように冷たかった。
 忽ち粗《まば》らな拍手が起った。その音に連れて、眼の前の靄がズ――ウと開いた。楽屋の入口から燕尾服《えんびふく》を着た日本人と、水色の礼服を着たカルロ・ナイン嬢が静々と歩み出して来るのが見えた。
 私は長い、ふるえた溜息をホ――ッとした。同時に全身の緊張が弛んで、腋《わき》の下から滴《したた》る冷汗を押える事が出来た。
 ナイン嬢と燕尾服の男は広場の真中まで来ると並んで立ち止った。
 二人が見物に対して丁重な敬礼を終ると、ナイン嬢が流暢《りゅうちょう》な英語で左《さ》の意味の事を述べた。
「……満場の淑女……紳士方よ……。
 妾《わたし》は先ほど皆様にお目見得致しまして、拙《つたな》い技を御覧に入れました露西亜《ロシア》少女カルロ・ナインでございます。
 わたくしは今、バード・ストーン曲馬団の団員一同を代表致しまして、謹んで皆様にお詫び致さなければなりませぬ事が出来ました
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