るが、錠剤にして馬に与えるときっかり二十分位で気が荒くなって、狂人《きちがい》のようになって暴れ出す。その代り精製してあるのだから副作用や何かはちっとも起さずに十分か十五分位であっさりと鎮まってしまうので、これはワザワザ陸軍の廃馬を使って実験したものだから間違いはない。
こうして都合よく誰にも見付からずに……見付かったら騎兵大佐の名刺を出して胡麻化《ごまか》すつもりであった……三十一頭の馬全部に、手早く錠剤を与えてしまうと、折柄、場内に哄《どっ》と大きな笑い声が起った。これは「大馬と小犬」の演技が初まっているので、この演技は、主役の支那人がなかなか上手《じょうず》だから、長くて四十分、短くて二十分以上は請合《うけあい》かかると嬢次少年は云った。その途中でこの厩の馬が一度に暴れ出す。……楽屋の者が総出で取り鎮めに来る。その隙に姿を換えた少年は、荷物部屋の奥に飛び込んでGEORGE《ジョージ》・CRAY《クレイ》と書いた真鍮張りのトランクを開いて、中にある黒い鞄を取り出して逃げるという計画である。
持主が自分の品物を持って行き易いように手伝ってやるのだから泥棒ではない。しかしこの行為の形式は金箔付きの泥棒の手先で、尠《すくな》くとも曲馬団に対する営業妨害という事だけは断言出来る。ついこの間まで法律の執行者だった私が、こんな事をしようとは夢にも想像しなかった。しかし、これも嬢次少年のためとあれば仕方がない。
元来私は初めての人間に出会うと、非常に警戒する性質《たち》で、善にまれ、悪にまれ、その人間の本性を底の底まで見抜いてしまった後でなければ、口を利きたくないという性分の男である。そうして一旦交際を初めても、暫くの間はその人間を疑問の圏内に保留しておいて、さり気なく様子を見ているので、この点から云えば私は思い切って卑怯な、疑い深い人間であった。……ところが今度ばかりはまるで調子が違っていて、私のそうした平生の性質とは全然正反対の事ばかりしている。まだ子供とはいえ素性の不確かな、しかも驚く程|悧巧《りこう》な人間を直ぐに信用して、その境遇に心《しん》から同情して窃盗の助手を甘んじて引き受けている。これは恐らく私の退職後の気の緩みから来たものかも知れないが、自分でも変だと思って考え直そうとすると、直ぐに少年のあの無邪気な、愛くるしい顔が眼の前に浮んで来て……何卒《なにとぞ》私の生命《いのち》を保護して下さい。私が頼みにするお方は貴方より他にありませぬ……という声が耳底に聞えるように思われる。
少年はその時私にこう云った。
「私はまだ一つ大切なものを曲馬場に残して来ております。私は是非それを取りに行かねばなりませぬ。それが敵の手にあるうちは、私は危険で一歩も外へ出る事が出来ないのですから……」
と……。その時に私は、それが唯、黒いボックス革の手提鞄《てさげかばん》というだけで、中に何が入っているのか詳しく問い正しもしないまま直ぐに、
「それは私が取りに行ってやろう」
と云った。それ位、私はこの少年に気乗りがしていたのである。そうして私が鞄を盗み出す方法について少年の意見を求めると、少年は深い感謝の眼付きをした。
「ありがとうございます。何卒それでは馬に薬を飲ませる仕事だけをお願い致します。馬さえ騒ぎ出せば、あとは私の方が勝手を知っておりますから仕事がしよいと思います。私は新宿から自動車で日蔭町へ行って、馬好きの学生か何かに化けて行くつもりですから……本当にお蔭で助かります」
そう云った時の嬉しそうな子供子供しい眼付きと言葉は今でもありありと私の眼に残っている。それから私は少年を送り出すと、直ぐに変装をして家《うち》を飛び出して、警視庁《やくしょ》へ来て志免警視に面会して、
「近いうちに大仕事があるかも知れないから腹構えをしておくように……」
と云い棄ててここへ来たので、後から思えばこの時の私は、嬢次少年を信用していたというよりも、寧ろその姿の美しさと、心根の真実さと、頭脳の明晰さに酔わされていたものと評すべきであろう。
折から又一しきり場内でゲラゲラという笑い声がどよめいた。時計を出して見るとキッチリ三時十分である。今から約二十分の後《のち》――三時半前後には騒ぎが初まるのだ。私はズラリと並んだ馬の顔を一渡り見まわすと直ぐに亜鉛《トタン》塀を飛び出して、表の入口に来て、今度は切符を見せて無事に場内の特等席に帰った。私の背後《うしろ》に居た女優髷の女はまだ席に帰って来ない。大方私を不良老年と見て取って帰ってしまったのかも知れぬ。つまらない事をしたものだ。
もう一度時計を出して見ると三時十三分になっている。厩から出てゆっくり歩きながらここまで来る間《ま》に三分かかっている訳だ。あとは僅に十七分間である。女の事なぞ考えてい
前へ
次へ
全118ページ中68ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング