の女の容色を引っ立てて、妖艶を極めた風情を示している。あまりに俗悪な比喩ではあるが、最前のカルロ・ナイン嬢の容姿を雪の精に見立てるならば、この女は、その化粧の凝らし加減や、その妖艶を極めているところから見て、是非とも花の精と思わなければならぬであろう。それも普通の花の精ではない。たった一眼で人の魂を奪い、生命《いのち》までも取ろうとする毒草の精に譬《たと》えねばならぬ……それ程にこの女は深刻な、艶麗な美しさをもっている。二年前に私の鼻を明かした志村ノブ子を、私は不幸にしてたった一眼チラリと見ただけで、印象に深く残していないが、これも絶世の美人だったそうで、東洋銀行に金を受取りに行った時は、やはりこの女と同様に紫縮緬の被布を着て、紫色のハンカチを持っていたそうである。カルロ・ナイン嬢も最前、紫のハンカチを振っていた。又嘘か本当か知らないが、伝え聞くところに依ると、世界第一の美人として歴史に名高い埃及《エジプト》女王のクレオパトラも紫色が好きだったそうである。紫という色は、ほかの凡《すべ》ての色を打消して、自分の美を擅《ほしいまま》にするものだと何やらの本で見た事があるが、もしそうだとすれば絶世の美人と呼ばれる女の嗜好《しこう》は自然と一致するものではあるまいか。しかも絶世というのはこの世に一人か二人しか居ないという意味であるとすれば、もしやこの女は志村ノブ子であるまいか。
私は女の容色に魅せられたようになって、こんな柄にもない突飛な疑問を起しながらじっと女の顔を見ていると、女も気が付いたかしてはっとしたように私の顔を見上げた。そうして極り悪そうに俯向《うつむ》いたまま、席を立って出て行った。
後を見送った私は急に馬鹿馬鹿しくなった。志村ノブ子とは年が二十近くも違っている。おまけにこの女は処女である。処女でなければあんな風に軽い単純な吃驚《びっくり》し方をするものでない。そうして、あんな風に羞恥《はにか》んでおずおずと出て行くものでない。とにかく今日は妙な日だ。よく美しい女だの少年だのに会う日だ。
その中《うち》に女はどこへか行ってしまった。自分もそのまま席を立って楽屋の前を通り抜けた。楽屋は近いうちに建築される東亜相互生命保険会社の板囲いと背中合せになっていて、そこへ行くのには演技場内から楽屋口を通って行くのと、一度表へ出て裏口から這入るのと二つの道しかない。しかし演技場内から楽屋へ行く通路の近所にはいつも一人か二人の団員が居ない事はないからうっかり這入れば直ぐに咎《とが》められるにきまっている。
私は改札口に来て係りの女にちょっと用足しに出たいからと云ったら、女は返事をしないで直ぐ傍に腰をかけて、切符を勘定している小柄な、痩せこけた西洋人を見上げた。その男の耳は、よく進化論や遺伝学の書物の挿し絵に出て来るつんと尖《と》んがった動物耳で、見るからに無鉄砲な、冷血な性格をあらわしていたが、その恐ろしく高い鼻の左右から、青い眼をギョロギョロさして私を見ると、黙って……よろしい……という風に頷《うなず》いたまま、又一心に切符を勘定し初めた。その時にそこいらに立っていた二三人の丁稚《でっち》風の子供が、その西洋人と絵看板を見比べて、
「スタチオだ……スタチオだ……」
と囁《ささや》き合ったので、私はモウ一度振り返ってその横顔を記憶に止めると、何かしらヒヤリとしながら、大急ぎで人混みに紛れ込んだ。ちょっと虎口《ここう》を逃れたような気持ちになって……。
それから大きな天幕《テント》張りを故意《わざ》と遠い方にぐるりとまわって、東京駅の見える裏通りへ来ると、そこには厩《うまや》があって、凡《およ》そ三十頭位の馬が、共進会見たいに繋いであった。カルロ・ナイン嬢の白馬も向って右から七番目に居る。その前二間ばかりの処を、古い亜鉛《トタン》の低い垣で仕切って「入るべからず」と立札がしてあって、その垣の内外に山のように積んだ秣《まぐさ》の間から、楽屋の一部と、馬の出入口が見える。折よく人は一人も附いていないで、ただ通りかかりの者が十四五人立ち止まって、ぼんやりと馬の顔を見ているだけであった。
傾いた日光が大|天幕《テント》の左上から眩しく映《さ》して、馬の臭いや汚物の臭気が鼻を撲《う》った。
私は猶予なく三尺ばかりの亜鉛《トタン》壁をヒラリと飛び越すと、恰《あたか》も係りの者であるかのように落ち着いた態度で、馬をいじり初めた。一匹|毎《ごと》に鼻面を叩いたり、口を開かせてみたり、眼のふちを撫でたりしてやると、馬は皆|温柔《おとな》しくして私が噛ませる黒砂糖包みの錠剤を一粒宛呑み込んだ。この錠剤の内容は前にも一度説明した通り、俗に馬酔木《あしび》とかアセモとかいう灌木の葉から精製したもので、人間に服《の》ませると朝鮮人参と同様の効果があ
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