、主義とか、意地とか、張りとかいう理窟めいたものは影さえ残っておりませんでした。そうして、そんなもの以上に切実な真実心ばかりが澄みきって残っていたのでありました。
その澄みきった真実心をもって静かに仰ぎ見ました時に、初めて宮城の気高さと尊さがわかりました。これこそ吾々日本民族が、この真実心を以て守り伝えて来た、その真実心のあらわれに外ならぬ。あの瑞々《みずみず》しい松の一葉《ひとは》一葉、青い甍の一枚一枚、白い壁の隅々、あの石垣の一個一個までも、こうした日本民族の真実心の象徴に外ならぬではないかとしみじみ思い知りました。
私の心がしずかに、神々しく私に帰って参りました。そうして雨の中に悽愴《せいそう》粛然と明けて行く二重橋を拝しまして、大自然の心の中《うち》にある最も崇高な、清浄な心の結晶が昔ながらに在《おわ》しました事を感謝しました。雨にずぶ濡れになったまま青草の中にひれ伏して、今までの小生の罪を繰返し繰返しお詫び致しました。
かくして小生は主義も理想もない天空快濶な自然の児《こ》に立ち帰る事が出来ました。二十年|前《ぜん》の若い田舎書生の心となって、恐る恐る帝国ホテルに帰って参りました。
小生はその翌日、前記の如くJ・I・Cの秘密文書をM男爵の手に交付すると同時に、頭を短かく刈り、鬚《ひげ》を剃り落し、服装を改めて東京駅ステーション・ホテルの十四号室に這入りました。それから十五万円の金は正金銀行から引き出して東洋銀行に入れ、荷物は皆、帝国ホテルに放棄しておきました。これは小生が今度の要件のため、急にいずれへか出発したものと見せかけるためでありました。
かようにして意を安んじました小生は、早くも五月蠅《うるさ》く付き纏う暗殺者の眼を逃れつつ、妻に危険を及ぼさぬように注意して二三度面会致しました結果、ウルスター・ゴンクールが伜《せがれ》を人質に取り、妻を威嚇《いかく》せんと致しております事情を知りました時には、思わず悲憤の情に満たされて、又しても凡《すべ》ての物を呪いたい気持になりました。しかし最早《もはや》、自分自身が、J・I・Cの呪いの的となっておりますばかりでなく、官憲の保護を受くる資格さえ喪っている上に世間から一片の同情をさえ受けられない身の上となっておりますからには、とてもこの運命に抵抗する力が得られない事と深く深く自覚致しましたので、せめてもの事に、自分一人を殺して、妻子の生命《いのち》だけでも救い止めたい決心を致しまして、小生の所持金の全部を妻に与え、残余を以て一身の後始末を致し、万事を貴下に御依頼申上ぐる決意を固めまして、やっと只今その決心の大部分を実行し終ったところであります。
あとはこの遺書を旧友藤波弁護士に依託して後《のち》、このホテルを脱け出して駅前の広場のまん中にある立木の根方に腰をかけまして、酔っ払いの真似をしながら、この二枚の名刺を埋めて帰れば万事を終る手筈になっておるのであります。
狭山九郎太氏よ。
かくの如き無恥、無徳、ほとんど一片の同情にだも価しない売国奴の小生が、正義、法律の執行官たる貴下に対して、かような厚かましい事を御依頼申上ぐる資格がない事は、明かに自覚致しております次第であります。
しかしながら貴下よ……。
叶いまする事ならば、小生と、小生の妻子とを同一視なさらないようにお願い致したいのが小生の最後の切ない希望なのであります。
小生の妻も、妻と生写しの姿と声とを有しております伜の嬢次も共に、純正なる日本民族の血と肉と精神とを保有致しておるに相違ない事を貴下の前に誓わして頂きたいのであります。
伜の嬢次がコンドルに誘拐されましたのは四歳の時だったそうでありますが、その容貌はもとより皮膚の色から、髪毛《かみげ》の生え際に至るまで妻と生き写しでありまして、少し大きくなりましてからは声までも妻の声と間違いましたそうで、ただ耳だけが小生のと同じ恰好をしていた事を記憶しております。今はどれ位の背丈になっておりますか存じませぬが、ちょうど十五歳になっております訳で、小生が只今|宿酔《しゅくすい》から醒めまして、死期の近い事を覚悟致しております気持ちの、異様に澄み切った遥か遥か彼方に、その嬢次の姿が立っておりまして、まだ見ぬ父母を恋い慕いつつ、日本の空をあこがれております心が、ハッキリと感じられておるのであります。
けれども、それと同時に彼《か》の恐るべき禿鷲《コンドル》の爪が、その愛児嬢次を虚空に掴みつつ、日本に飛んで来まして、その恐ろしい翼で、妻ノブ子を羽搏《はう》とうとしている事実がありありと感じられておるのであります。聞くところに依ればコンドルは目下東部|亜米利加《アメリカ》に於て、欧洲各国からアブレて参りました曲馬師連を集め、部下の中《うち》でもこの方面に心
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