を得ず、強いて迫る時は自殺でも仕《し》かねない決心をアリアリと見せましたので、亜米利加女ばかりを相手にし慣れておりましたコンドルは、かようなノブ子の純日本式貞操観念を理解する事が出来ず、一種のヒステリーと考えましたらしく、熱心に入院静養を勧めた事もあったそうであります。一方に小生はまた、妻が小生を見限って、愛児と共に行方を晦ました旨をコンドルから聞きましたのみならず、小生が苦心して開拓した事業その他の財産までも妻が奪い去ったという報告を信じまして、全く妻子の事を断念し、依然として悪事の頭目となり、指揮計画者となりつつ、酒色に親しんでおりました。

 然るにこれを見ましたコンドルはイヨイヨ機会が熟したものと考えましたらしく、妻を手に入れる第二段の策略に取りかかりました。
 すなわちコンドルは友人の悪弁護士や偽探偵を使って、愛児嬢次の行方を捜索してやると言葉巧みに偽らせ、時々は見すぼらしい姿をした嬢次の写真を見せたりなぞしまして、四五年の間にノブ子の全財産を捲き上げてしまいました。ここに於てノブ子は窮迫の余り、僅かに残った金でタイプライターと簿記を習い覚え、紐育《ニューヨーク》北郊外ハドソン河の傍らなるマハン造船所の前に在る料理店ゴールデン・ハマーの事務員に住み込む事になりました。ところが、しかも偶然か天意か知らず、このゴールデン・ハマーこそはその当時J・I・C秘密結社の根拠となっていた処でありまして、コンドルはこの時、東部首領となって、当時危機一髪の境におりました欧洲大戦前の各国外交の裏面に活躍して、バルカン方面に根拠を据えて策動しており、小生は西部首領となりまして、桑港《サンフランシスコ》に根拠を構え、主として支那、朝鮮内地に活躍するJ・I・Cの資金輸送の仲介を仕事と致しておりました。
 然るに又、妻ノブ子はこのゴールデン・ハマーに住み込みますと間もなく、そのカーネション会社経営から得た事務的才能を発揮致しまして、店主アラン、及び、団員一同に認められるように相成りました。そうして日本のJ・I・Cにまだ然るべき中心人物が居ないために、その情報部長としてノブ子を派遣する事に内定し、店主アランとゴンクールの両人から、言葉巧みに結社の加入を勧誘し初めたのであります。
 ところで元来この、J・I・C結社の建前と致しましては、その国々に同情を持たない他国人、もしくはその国に深怨を抱いている隣国人を密偵として派遣し、その国人に対する兇悪なる仕事の遂行、もしくは団員相互の制裁等に、情実的な間違いの起らないように警戒するのが通例となっておりますので、この意味から申しますと、こうした団員の決議は異例に属する事でありました。殊《こと》にかような女を、日本内地に於けるJ・I・Cの首領とも見るべき情報部長に決定したというのは異例中の異例に属するものでありましたが、その理由と申しますのは他でもありません。J・I・Cの団員が貴方《あなた》の名声を恐れていたからであります。すなわち先年、貴方が英国大使館の日英同盟に関する重要書類紛失事件に関係されました際、現場の近くに吐き棄てられたチューイング・ガムの形状によって、その犯人の国籍と職業を推定し、事件発生後二時間を出でず、東京市内を脱出する暇《いとま》なき以前に犯人を逮捕されたる事実が、日英両国を除きたる各国の新聞に漏洩し、大々的に報道されましたので、かくの如く外国の事情に精通したる名探偵には、外国人は不向きかも知れぬ。寧《むし》ろ日本人の、しかも女を派遣して、意表に出る策略を執ったならば却って安全かも知れぬという説が多数を制しましたために、コンドル首領も不承不承に承知したものと考えられます。
 しかし申すまでもなくゴンクールのコンドルは、この事を少しも小生に相談しませず、ただ愛児嬢次が日本に居るらしいと偽って、妻を日本に追いやったものでありますが、馬鹿正直な妻ノブ子はこの時までもなお、コンドルの人物と仕事が不正不義なものである事を気付かず、コンドルは世界中の国々の法律や制裁に関係なく、秘密の裡に不幸なる民族国家を助くる超人的人物と信じ切って結社加入を承諾しましたものだそうで、同時に又、小生がこの結社の西部首領となっておりました事も、この団体の完全な秘密組織のために遮断されて夢にも聞知していなかったそうであります。すなわち小生も妻も、結社加入以来一度も本名を名乗らず、変名、もしくは自己の標識番号のみを以て通信し、且つ、英文タイプライターばかりで事務通信をしておりましたので、数限りない手紙や電報を取り交しながら、一度もその夫であり、妻である事を知り得なかったのであります。
 かような次第で、妻ノブ子は、伜《せがれ》嬢次が日本に居るらしいという話を聞くや、大喜びでジェイ・ファースト(J・1)の番号を貰いまして、小生
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