の叛逆者に対する報復手段が如何に深刻執拗なものであるかを知っておられながら、小生等親子を、その呪いの中《うち》に放任しようとしておられるM男爵の意中を察して、骨の髄まで震え上らせられて退出しました。
 かくして小生等親子三人は、当然の酬《むく》いとはいいながら、天下に身を置く処がなくなったのであります。ただ一人、貴下の御同情を仰ぐより外に生存する道がなくなったのであります。
 放蕩無頼の酬い、又は売国奴相当の末期とは申せ、一切の同情と庇護とを受くる資格を喪失すると同時に、拳銃《ピストル》と、麻縄と、毒薬と、短剣とに取り囲まれて遁《のが》るる途《みち》もなくなっておりながら、僅に残る未練から、せめて妻子だけは無事に生き残らせて、日本人らしい一生を送らせたいばかりに、かような苦しい手段を以て、極秘密の裡《うち》にこの遺書を貴下に呈上する事の止むを得ざるに立ち至りました。小生の境遇に対し、一片の御同情を賜わりまして私の迷える魂を安んじ賜わらむ事を、三拝、九拝してお願い致す次第であります。
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――因《ちな》みに――この遺書は内容を厳秘にして小生の旧友藤波弁護士に委託しましたもので藤波自身もこの内容を存じません。これは同人に内容を知らせて迷惑をかけたくない考えから致しました事で、一つには同人に預けておきました方が、可疑《いか》がわしい銀行の地下室に預けるよりも安全確実と信じましたからかように計らいました次第であります。
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 次に、先ずJ・I・C秘密結社の恐るべき内容を暴露致します前に、順序として小生の経歴を少しばかり述べさして頂きたいと思います。
 小生の父は千葉県の旧士族でありまして、極端な漢学崇拝者でありましたが、御維新の際、彰義隊に加わって各地に転戦した事があります。その後一人息子の小生と共に、前記原籍地に隠遁致しまして、書道漢学の塾を開いておりましたが、近来の学校制度を極度に嫌いまして、小学校卒業後の小生を上の学校に進ませず、塾生と一緒に厳格な漢学教育を仕込んでおりました。これは性来のなまけ[#「なまけ」に傍点]者で自由思想崇拝者の小生としては実に不満苦痛に堪えない境遇でありましたが、父の厳命が恐ろしいと同時に、経済上の都合から、苦学をする勇気もないままに、止むを得ず隠忍致しておる状態でありました。
 然るにその父は、その後間もなく、小生が十六歳の時に死亡致しましたから小生はここぞとばかり、僅かばかりの家財を処分致し、村人の餞別を受けて東京に出まして、学校に入って新知識を得ようとしましたが、それまでの厳格な教育の反動が来ましたものか、親譲りの飲酒癖が次第に高まって来まして、遂に堕落学生の群に入り、種々の悪事と醜行に興味を持つに至り、数年の後にはM男爵の遠縁に当る富豪、現貴族院議員、枢密院顧問官|久礼《くれ》伯爵の三女ノブ子を誘うて亜米利加《アメリカ》に渡航する事に相成りました。
 米国渡航後の小生はローサンゼルス市を相手とする草花栽培に着眼し、特に自分の趣味として酒類の合成法に深入りしまして爾後《じご》二十何年の間に幾多の新発見を致しました。従って、有機化学的の研究から毒薬の研究にも趣味を持つようになりましたもので、現在小生が所持しております一瓶の如きは小生手製の物の中《うち》でも最猛毒な一種であります。しかもこれは失礼ながら、ずっと後《のち》に手に入れました貴下の秘密出版にかかる『毒薬の研究』の中にも洩れているようでありますから、その製法を御参考迄に説明致しますと、臭気でもお解りになります通り木精《メチル》の一種で、ジャスミン油中のアンスラニル酸メチルエステルを石灰の媒合によって電気分解させて見た結果、偶然に得ました比重約七七の軽い液体であります。その化学式は調べて見ませぬから判然致しませぬが、一種の多価|木精《メチル》であります事はたしかで、豚や犬等によって実験した結果を見ますと、先ず聴神経を犯されて、次に視神経を破壊してしまいますが、心臓には絶対に影響しないようであります。又黒人の奴隷を材料として研究したところによりますとアルコール中毒者、又は、飲酒して酔臥したものに注射した場合には、五分間後に確実な全神経の痲痺を起し、同時に全筋肉を強直させて、死前と同様の状態で絶息致しますので、絶対に苦悶を起しませぬ。但し、その時に飲酒していない者、又はアルコール中毒者でなければ単に阿片程度の愉楽な麻酔を感ずるに止まるという、極めて便利なものでありますが、非常に得難い液体でありますから大切に保存致しておりましたものが、計らずも今度役に立つ事と相成った次第であります。

 しかし、かような研究はずっと後《のち》に致しましたもので、渡米後の小生はそのような研究に耽る暇もなく、自分自身も固く禁酒
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