》し、樫尾に扶《たす》けられて逃亡の準備を致しました後《のち》、暫くは寝台の上に打ちたおれておりました程でございました。
 とは申せ、そう致しますうちに尚よく考えまわしてみますと、妾はまだJ・I・Cの内情を耳に致しましたばかりで、その恐ろしい仕事の実際を眼に見た訳ではございませぬ。嬢次の事とても同様でございまして、妾が親しく会ってみました上でなければ、真偽の程が確かとは申されないのでございます。ことに樫尾という人間がどうしてこのように妾の世話ばかり焼きましてJ・I・Cから裏切らせようと致しますのか、その理由が、まだハッキリと解った訳でもございませぬのに、みすみす眼の前の夫を見殺しに致して、妾一人何しに海外へ立ち去る事が出来ましょう。ですからその夜《よ》に入《い》りまして、介抱しておりました樫尾が立ち去るのを待ちかねまして、くるめく心を取り直しつつ、カフェー・ユートピアに夫を呼び出し、樫尾の物語を打ち明けまして、J・I・Cの真相を妾に洩らさなかった夫の無情を怨みました。
 ところが夫は別に驚く様子もなくこう答えました。
「お前にJ・I・Cの秘密を知らせなかったのは別に深い理由があったからでない。お前を裏切らせると嬢次の生命が危なくなるから、裏切るなら俺一人で裏切りたいと思っていたからなのだ。いずれにしてもお前の事は狭山という人によく頼んでおくから、安心して日本に居れ。J・I・Cが総がかりで来ても、又は樫尾の智恵を百倍にしても、あの人の一睨みには敵《かな》わない。お前は狭山さんを知っているだろう」
 と申しましたから、お顔だけは新聞紙上でよく存じている旨を答えましたところ、
「それならばいよいよ好都合だ。俺の事は決して心配しなくともよい。現に一昨日《おととい》の晩も、朝鮮人らしい奴が一人|尾行《つけ》て来たから、有楽町から高架線の横へ引っぱり込んで、汽車が大きな音を立てて来るのを待って振り返りざま、咽喉元を狙って一発放したら、ガードの下の空地に走り込んでぶち倒れた。しかし其奴《そいつ》は死ななかったらしく、今でも図々しく俺を追いまわしているが、そんな奴を恐れる俺じゃない。唯気にかかるのは非国民の名だ。だから、お前は伜の事は思い切っても、俺と一緒に非国民の汚名を受けないようにせよ。今夜でも宜しいから狭山さんの処へ行って事情を打明けて保護方をお願いせよ。狭山さんは剣橋《ケンブリッジ》大学の応用化学を出た人で、J・I・Cの団長W・ゴンクールの先輩に当る人だ。卒業生の名簿を御覧になればわかる。……この事が狭山さんに洩れた事がわかったらJ・I・Cで大警戒をするからそのつもりで極《ごく》秘密にして行け」
 と申しまして強いて妾を去らせました。
 しかし妾は尚も夫の身の上の程を心許なく存じましたので、昨夜《ゆうべ》遅く、共々に狭山様の処にお伺い致します決心で、人知れずステーション・ホテルに訊ねて参りまして、ボーイに二十円を与えて案内させ、夫の室《へや》に参り、内側から鍵をかけまして、気永く自殺を諫めにかかりましたけれども、夫はやはり相手になりませず、泥靴のまま寝台の上に横たわりまして、只管《ひたすら》に眠るばかりでございました。
 それで妾は、今朝《けさ》早く、今一度参ります心組で、手袋をはめながら窓を閉《とざ》し、電燈を消して廊下に出ましたところ、最前案内を頼みましたボーイが立ち聴き致しておりましたらしく、逃げて行くうしろ姿を認めましたから急に呼び止めまして、又も二十円を与えて口止めを致しましたが、そのまま今一度|扉《ドア》の前に引返《ひっかえ》し、室内の様子に耳を澄ましますと、夫はよく睡っておりますらしく、鼾《いびき》の声ばかり聞えましたから、すこし安心致しましてホテルを出ようと致しました時、お礼心でございましょう最前のボーイが送って出て参りましたから、忘れて手に持っておりました合鍵を渡しまして、今一度念を入れて口止めを致しました。そうして表に出ましてから十四号室の窓を仰ぎましたところ、夫は実は眠りを装うておりましたものらしく、妾が閉しておきました窓を押し上げ、ズボンにワイシャツ一つの姿で妾を見送っておりましたが、妾が振り返ると殆んど同時に身を退《ひ》いて闇の中に隠れてしまいました。
 今から思いますとこの時こそ夫の姿の今生《こんじょう》の見納めでございました。夫はJ・I・Cの団員と致しましても、又は日本民族の一人と致しましても、いずれにしても死なねばならぬ運命を思い知りまして、妾が立ち去るのを待ちかねて自殺致したものと存じます。
 妾はこの時、何となく後髪を引かれまして、胸が一ぱいになりました。けれどもいずれ明朝の事と存じまして、思い切って帰宅致しました。そうして今朝《こんちょう》七時半頃、右手のリウマチスが再発致しました旨の、偽りの欠勤
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