、去る九日の午前出勤中に外務省の機密局長M男爵閣下宛、配達致して参りました封書中に、夫の筆跡に相違ない無記名のもの一通を見付けましたので、思わず胸を轟《とどろ》かせました。そうしてその手紙をこっそりと自分の室に持ち帰りまして秘密に開封して読んでみますと、これこそ妾の夫志村がM男爵閣下に、J・I・Cの暗号基帳と、団員の名簿を手交致しますために、大森の山王茶寮で当夜の九時にお眼にかかりたい云々と認めました約束の文書でございまして見るも胸潰るる恐ろしい内容でございました。
けれども妾はやっとの思いで心を落着けまして、その封書を元通りにして男爵閣下の机に返しました。そうしてその夜、大森の山王茶寮で、M男爵と面会して帰りかけました夫を途中で待ち受けまして、無理に当教会の地下室に伴いまして、J・I・Cに対する裏切りの行いを、きびしく責めたのでございますが、僅か二三日の間に見違える程やつれ果てました夫は、淋しく笑いますばかりで、私の申します事を少しも相手に致しませぬ。その上に兼ねてより酒類売買で蓄えておりました十五万円の財産全部を私に与えまして、永久に別れようではないかと申し出でました。
妾はこの言葉を聞きますと同時に、夫が何かの原因で自殺の決心を致しておりますのを悟りましたので、あまりの悲しさに身も世もない気持になりまして、それならば一緒に外国に逃れてはどうかとすすめました。けれども夫は何か考えがありましたかして、何としても妾の申条を承知致しませず、ただ、自分一人だけ外国に逃げる事だけは辛うじて承知致しまして、その費用を除きましたあと全部を私に与えまして、妾の思い通りに使ってくれよと申しましたから、とりあえずその通りに致しました。
けれども妾は、なおも夫が自殺の決心を持っているらしく思われてなりませぬので、恐ろしさと悲しさの遣る瀬ないままに、毎日のように夫のあとをつけまわしまして、度々面会致しては言葉を尽して諫《いさ》め訓《さと》しましたのでございますが、夫は只がぶがぶと酒を飲みますばかりで相手になりませず、妾の恐れと悲しみが弥増《つの》るばかりでございました折柄、昨十二日の午前中、小包郵便で前記の暗号入りの聖書が到着致しました。のみならず、間もなくその聖書を送りました本人の樫尾自身が妾の出勤先の外務省に飛んで参りまして、団員の一人である朝鮮人留学生、朴友石《ぼくゆうせき》の密告によりまして、私に対する死刑の宣告が、只今米国本部より樫尾の手許まで到着致した旨を告げ知らせました。そうして尚その上に――鮮人朴友石は一種のコカイン中毒から来た殺人淫楽者で、色々な巧妙な手段を以て不思議の殺人を行い、今日迄度々警察を悩まして来た白徒《しれもの》で、殊に異性の私を殺し得る機会を得ようと兼ねてから付け狙っていた恐るべき変態恋愛の半狂人である。なれども樫尾自身は日本政府の御命令で、あくまでも、J・I・Cに踏み止まるべき重大なる任務を持っているために、朴の行動に反対する事が出来ない。却《かえ》ってその計画に賛成して、色々と指導を与えておいた位だから、私の運命は風前の燈《ともしび》――と申すような恐ろしい事実を申し聞かせ――後《のち》とも云わず即刻、海外に逃れるよう、準備を整えよ――と言葉をつくして諫めました。
けれどもその時に妾はなおも夫の事を気づかいまして、躊躇致しましたところ、樫尾は遂に、もどかしさに堪えかねましたものか――左程に疑わるるならば、かく申す樫尾の身分と、今日までに探り得ましたJ・I・Cの真相を打ち明けましょう。序《ついで》に貴方の御子息の行方もお話しまして、妾が何故に斯様に一生懸命になって貴女《あなた》の御一身の事を心配致しますかという、その理由を説明しましょう――と申しまして、妾に病気欠勤をさせて自身に運転して来ました自動車に乗せ、多摩川附近までドライヴを致しました。
この時に樫尾から承わりましたJ・I・Cの真相が、どのような恐ろしい、残忍非道なものでございましたかは貴方様のお察しに任せます。いずれに致しましても、前に申上げました表面的な主義主張とは全くうらはら[#「うらはら」に傍点]の実情でございまして、詳しくお話し申上げたいのは山々でございますが、あまり長く相成りますから併せて略させて頂きます。
妾はその話の一々に就きまして思い当る事ばかりでございましたのみならず、永年尋ね求めておりました伜《せがれ》の嬢次が、紐育《ニューヨーク》の郵便局に奉職致しておりますことが最近J・I・Cに判明致しまして、人知れず人質同様の監視を受けております状態で、妾の素振によりましては、その生命を代償として、妾を威嚇致します準備が整っております旨を承わりました妾は、余りの恐ろしさに魂も身に添わず、病気のように相成りましてこの教会に引返《ひっかえ
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